カテゴリ:仏教思想のゼロポイント( 4 )

「仏教思想のゼロポイント」より 第四回

緑字は引用
黒字は僕の記述

・・・

「悟り」あるいは「悟りの前提」について

禅定というのは特定の対象に意識を集中(サマーディ)する実践であり、したがって、様々な概念を組み合わせることで進行する思考の作用は、注意力の散乱をもたらすがゆえに排除される。そして、その集中力によってもたらされる如実知見の認知においては、概念操作が成立する前提であるところの、分別の相が寂滅してしまっているのだから、そこで思考が成立する道理はないのだ。(p.138)

つづけて著者は、
ゴータマ・ブッダの仏教における「悟り」は、

推論や思考の結果として徐々に到達される概念的分別知ではなくて、瞬時に起こる決定的な実存のあり方の転換、即ち、いわゆる「直覚知」である(p.139)

とも述べている。

 すると、残る問題はそのような無為の涅槃の覚知が実際に起こるのかどうかということになるだろうが、これについてはテーラワーダの瞑想センターで、上部座圏のみならず、世界中から集まった実践者たちが、いま・この時も「現に証し」続けていることである。(p.156)

「涅槃の経験」の内実それ自体についても、描写を行っておくべきだろうが、これは涅槃が不生不滅の無為のものであり、言語の領域である分別の相を超えたものである以上、究極的には不可能事である。(p.157)

ここまでの叙述では、分別の相の枠組みから眺めた限りでの涅槃の「性質」の描写を行い、それを経験することが引き起こす「結果」についても述べてきたが、その経験の内実それ自体については、これまで行ってきた以上の描写をすることはできない。結局のところ、ここが言語の権利と能力の限界である。(p.157)

ウ・ジョーティカは涅槃の「性質」について次のように述べている。

(書中引用)
 涅槃の性質は、精神的・物質的現象の性質とは全く反対です。このこともまた、重要です。ある人々は、涅槃と輪廻が同じであると言う。違いますよ。全くはっきり違います……。しかし、涅槃を理解するためには、あなたは輪廻を理解しなければなりません。輪廻とは、精神的と物質的のプロセスのことです。それが輪廻と呼ばれるのです。ある人が、一つの生から別の生へ移るという、物語のことではありません……。本当の輪廻とは、本当の廻り続けることというのは、この精神的と物質的のプロセスが、ずっと続いていくことを言うのです。それが輪廻と呼ばれるのです。その終わりが、涅槃。涅槃は輪廻と関係している、と言うことであれば、まだ可能です。涅槃は何らかの仕方で、精神的と物質的のプロセスに関係をもっている。しかし、涅槃はプロセスの中にはありません。それはただプロセスの外にあり、ただプロセスの縁にある。その限りにおいて、涅槃は輪廻と関係していると言うことは、可能です。
(以上、書中引用)

 ここで言われていることは、涅槃は「精神的と物質的のプロセス」である輪廻、即ち、生成消滅する現象の継起とは全く性質の異なるものであるということ。そして、涅槃は輪廻のプロセス(現象)を徹底的に観察することでもたらされる以上、その限りにおいて輪廻と「関係している」ということは言えるが、それ自体が輪廻のプロセスの中にあるというわけではない、ということである。これらは既に、本書のここまでの叙述でも確認してきたことだ。
 では、涅槃の経験それ自体についてはどうか。ウ・ジョーティカはこう言う。

(書中引用)
 涅槃とは一つの経験です。
 その瞬間には、対象と観察が停止する。
 その二つのものが停止するのです。
 瞑想者には、全てが終焉したように感じられます。

 これについて例を挙げることなんてできるでしょうか? この状態は、言語を超えたものです。それについて語ることはできません。それはまるで、重い荷物を運んでいて、それを下ろしたようなものです! あるいは、何かとても重いものを引っ張っていて、ロープがプツンと切れたようなもの!
(以上、書中引用)

 涅槃の原義は(煩悩の炎を)「消すこと」だとされるが、まさに火が消えるように、その時には対象と観察、即ち、継起する現象の認知が消失してしまう。現象の認知がないのに「経験」があるというのは理解の難しいことだし、「推論の領域を超えた」ことだ。だから、その「経験」の内実について、言葉で語ることは不可能である。ただ言えることは、それが起こった時には、煩悩の炎が実際に消えてしまうということだけだ。(p.158−160)

著者は続けてこう述べる。

 涅槃についてもう一つだけ言っておくと、それはゴータマ・ブッダが「現に証せられるもの」であり「来て見よと示されるもの」であると語っている通り、日本も含めた世界各地に存在する瞑想センターに参じれば、誰でも「経験」を試みることのできるものである。文献や他人の証言によって、その「性質」だけを知ることに満足されない方は、ぜひ自ら、それを試みていただきたいと思う。(p.160)

「慈悲」と「優しさ」について

現代日本では日常用語として使われるこの「慈悲」という言葉は、同じく日常用語である「優しさ」と、しばしば混同して理解されがちである。(中略)ブッダは「優しい」から衆生に説法を説いたのだということになるわけだが、私の見方では、これは必ずしも正しくない。(p.155)

その最も大きな違いとは、行為者の内面において、「慈悲」のほうは常に「捨(平静さ)」の態度が伴っているのに対して、「優しさ」にはそれが伴っていないことである。(中略)「優しさ」というのは、他者の喜怒哀楽を感じとって同調し、それに働きかけようとする心であるが、「捨」というのはそうした心のうごきを全て平等に観察して、それに左右されない平静さのことを言うからだ。(p.166)

仏教の実践者は、しばしば「本当の慈悲は悟ってからでないと出ませんよ」と口にするが、それは当然のことであって、我執と欲望によって織り上げられた「物語の世界」の中で、現実を如実知見しないまま盲目的に「利他」(だと感じられる)行為をするならば、それは単なる「優しさ」である。欲望の物語への執着を離れたところから、我執も他執もない平等なはたらきかけを行わなければ、それは仏教の「慈悲」にはならないのだ。(p.166)

「無意味」と「意味」

「無意味だ」と言うことが「意味」をもつのは、そのように規定された対象以外のどこかに、「有意味」なものが存在している場合である。かりに全てが「無意味」であるとするならば、「無意味だ」と言うことにすら、既に「意味」は存在していないはずだ。(p.171)

 つまり、「無意味だ」という判断をした時点で、それは「物語の世界」の文脈に回収されてしまっており、如実の風光からは、既に離れてしまっているということ。(p.172)

ゴータマ・ブッダの語ったことは、「全ては無意味だ」ということではない。そうではなくて、彼が教えたのは、「無意味だ」と口にしてまで新たな「意味」を生成し続けずにはいられない、その衝動、その根源的な欲望を深く見つめ、それを滅尽させることである。(p.173)

「遊び」

 では、意味の判断も無意味の判断も失効したところから、衆生への利他のはたらきかけを行おうとする人々の心象はいかなるものであるのか。敢えて言語によって簡潔に表現するならば、それは「遊び」と言うのが適切であると思う。(p.173)

意味も無意味もない現象が、生成消滅を続けながら、それでも形成され存在しているということは、それ自体として「奇跡的」なことである。(p.174)

様々な場所について、ゴータマ・ブッダがそれらを「楽しい」と讃えるシーンも記述されている。対象が自然美とはいえ、渇愛を滅尽した解脱者たちがそれを「楽しむ」というのはおかしなことのようであるが、実際のところは、これはとくに不思議なことでもない。対象への余計な執着の物語を離れた覚者や仏弟子たちは、その風光から現象の世界を反照することによって、存在するものがただ存在するということそれ自体を、純粋に「楽しむ」ことができるからである。(p.174)

ゴータマ・ブッダの仏教は、「凡夫が生の内容だと思っているところのもの」を、少なくともいったんは否定するものであったが、「生」そのものを徹頭徹尾否定するものであったとは言い切れない、と私は書いた。その理由は単純で、「凡夫が生の内容だと思っているところのもの」を厭離し離貪して、ひとたび解脱に至った者は、もはや肯定も否定もしないからである。(p.175)

覚者にとって、意味も無意味もない。利他功をするもしないも、本質的に純粋な意味での「遊び」なのだと、著者は言っている。また、ブッダのように説法対象を限定するのも、大乗的に一切衆生を対象とするのも、どちらも「遊び」であり、どちらが正しくどちらかが間違っている、ということもない。

独覚

仏教では一般に独覚と称される人々の存在が認められている。これは仏弟子である声聞とは異なって、師なくして独自に覚者となった人であり、また悟後にゴータマ・ブッダのような慈悲の利他行を実践して広く衆生を救済することもなく、そのまま亡くなってしまう人である。(p.178)

智慧の覚悟と慈悲の実践

このように、智慧の覚悟と慈悲の実践は、矛盾するものでは決してないが、かといって、必ず併存していなければならないというものでもない。(p.180)

(一部の)大乗仏教の、ブッダの教えと異なる展開

無為の寂滅境に住することよりも、「物語の世界」の中にある衆生にはたらきかけることを優先しようとすることは、伝えられてきたゴータマ・ブッダ自身の言行とはずれてくる。だから彼らは自ら新しい教典や論書を作成し、そこで何とか、自分たちの価値判断に、教理的な整合性をつけようとした。そこで行われたことが、例えば自己の目標を「成仏」として無限遠の未来に位置づけ、「菩薩」としての現在をそのための「過程の生」であると定義することで、「物語の世界」における今生での活動を正当化してしまうことであり、あるいは龍樹がそうしたように、「涅槃」と「世間」の区別を無効化してしまうことで、後者から前者への移行というゴータマ・ブッダの仏教の基本線自体を、いわば「宙吊り」にしてしまうことである。(p.192)

彼らがゴータマ・ブッダ自身の示した態度からは多かれ少なかれ逸脱・離反しながらも、それでも自らを「仏教徒」であると考えたのは、彼らが「現実性」へと関与する際の立脚地が、ゴータマ・ブッダの教えにしたがうことによって知ることを得た(と自己認識した)、「本来性」の風光にあったからだ。
「本来性」を知り、己の立脚地をそこに置くということに関してはゴータマ・ブッダと変わらなくても、その「現実性」との交渉の仕方に関しては、ゴータマ・ブッダとは異なる道を選んだ人たち。「大乗」とはそのような覚者たちによって担われた運動なのではないかと思われる。

大乗仏教に近い人にとっては、不愉快な記述かも知れません。
もしご気分を害されていたら、お詫びします。

ミャンマーとタイ

ミャンマーとタイは、ともに上座部圏に属する国であり、多くの国民がテーラワーダ仏教徒であるが、それぞれの国で実践されている仏教の性質には、やはり微妙な差異がある。そして、中でも顕著な相違であると考えられるのが、その涅槃に対する把握の仕方だ。総じて言えば、ミャンマーの仏教徒たちにとって、涅槃とは本書で述べたような瞑想による無為の領域の覚知のことであり、タイの仏教徒たちにとって、涅槃とは瞑想時に限らず、行往坐臥の全てにおいて実現されている、人格の一定の状態を指すように思われる。(p.199)

・・・

返却期限が来てしまったので、駆け足での引用になりました。
いくつか書きたいこともありましたが、だいぶつかれました。一旦終了です。




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by toshiokake2 | 2018-03-29 13:16 | 仏教思想のゼロポイント

「仏教思想のゼロポイント」より 第三回

緑字は引用
黒字は僕の記述

・・・

実践について。

(前略)実践者が具体的にやらなければならないことは何だろうか。(p.124)

(中略)『スッタニパータ』に、「世界における諸々の煩悩の流れを堰き止めるものは気づきである。この煩悩の流れの防御を私は説く。その流れは智慧によって塞がれるであろう」と説かれていることが参考になる。つまり、自然のままに放っておけば対象への執着へと流れていく煩悩のはたらきを、まず止めるものは気づきであり、そしてその流れを塞ぐ、即ち根絶するのが、智慧であるということだ。(p.125)

 この「気づき」というのは、現状に気づいており、自覚的であることだと、基本的にはそのようにシンプルに考えておいて構わない。(p.125)

六根によって六境を感受した際、六境に対する貪欲があれば「私の内に(六境に対する)貪欲がある」と知り、それがなければ、「私の内に(六境に対する)貪欲がない」と知る、そのように理法は「現に証せられるもの」等の性質をもっている(p.125)

 つまり、認知が起きた時に、修行者の内面に対象への貪欲があれば「ある」と気づき、なければ「ない」と自覚する。そのようにゴータマ・ブッダの理法は明白で時を選ばず実践できるものであり、それが涅槃へ導くのだということである。これは実に端的な教えでわかりやすい。(p.125)

 即ち、歩いている時には「歩いている」、立っている時には「立っている」などと、いかなる時でも自分の行為に意識を行き渡らせて、そこに貪欲があれば「ある」と気づき、なければ「ない」と気づいている、そのような意識のあり方を日常化することで、慣れ親しんだ盲目的で習慣的な行為(=煩悩の流れ)を「堰き止める」ことが、気づきの実践になるわけである。(p.126)

非常に分かりやすい話でした。

今回はこのへんで。




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by toshiokake2 | 2018-03-21 05:54 | 仏教思想のゼロポイント

「仏教思想のゼロポイント」より 第二回

緑字は引用
黒字は僕の記述

・・・

前回に引き続き、仏教における「私」「個体性」の捉え方について。

 先ほど凡夫であれ覚者であれ、「認知のまとまり」としての「個体性」であれば有しているし、だからブッダも「私」という言葉を使って説法する、ということを指摘したが、もちろん凡夫と覚者には違いもあって、それは継起する現象、流動する認知の場のどこかに固定的・実体的な「私」が本当に存在していると思い込み、そしてそこに(無意識であれ)執着しているかどうかの違いである。その思い込みと執着に束縛されているのが凡夫であり、そこから解脱しているのが覚者であるということだ。(p.91)

これは言葉通りの意味です。
そして「輪廻」について。

 それでは「何」が輪廻をし続けているのか? それは仏教の立場からすれば、行為の作用とその結果、即ち業による現象の継起である。つまり、行為による作用が結果を残し、その潜勢力が次の業(行為)を引き起こすというプロセスが、ひたすら相続しているというのが、仏教で言うところの「輪廻」の実態なのであって、(中略)「何が輪廻しているのか」という問題の立て方は、仏教の文脈からすれば、そもそもカテゴリーエラーの問いであるということになる。存在しているのは業による現象の継起だけなのであり、その過程・プロセスが「輪廻(廻り流れること)」と呼ばれているのであって、そこに「主体」であると言えるような、固定的な実体は含まれていないからだ。(p.96)

これは「輪廻」についての非常に興味深い記述です。
続けて著者は、以下のように述べます。

 したがって、「輪廻」というと私たちは一般的に、ある「人」が死んで、それが別の存在として生まれ変わるという「転生」の物語ばかりを考えてしまいがちだが、実のところ輪廻というのは、そうした転生の瞬間だけに起きるものではなくて、いま・この瞬間のあなたにも(仏教の立場からすれば)、現象の継起のプロセスとして、生起し続けているものである。転生というのは、そのことのわかりやすい表れに過ぎない。(p.97)

僕も、
仏教の「輪廻」を、一般的な輪廻観、
『ある「人」が死んで、それが別の存在として生まれ変わるという「転生」』、
手塚治虫の「火の鳥」のように、魂が主体となって生まれ変わりを繰り返すもの、
として捉えていました。

しかしそれは、僕の世界観と合いませんでした。

僕の世界観は、
あらゆる万物は生成消滅を繰り返しながら全ては繋がっている、という世界観、
言い換えると、
人の体を構成している組織・分子・原子は、人の体になる前にも存在していて、それがたまたま今は「人の体」として集まっていて、「人の死後」もその物体は存在し、また散らばってどこかでまた何かと結合して新しい物体を作る、という世界観でした。

僕の世界観は純粋に科学的ですが、
一般的な輪廻観は科学的に証明されたものではありません。

科学的に証明されていないものをいちがいに退けるのも無粋ではありますが、
やはりなかなか受け入れづらいものでした。

これについて著者は、上記のように、
一般的な輪廻観は、ゴータマ・ブッダの説いた輪廻観と異なる、と説明し、また、
著者の言うブッダの輪廻観は、僕の世界観と同じように見えたので、
この点において僕は、まだ仏教と親和性を保てる、と確認できました。

(余談ですが、分子も原子もまだ発見されていない時代に、ブッダはここまで洞察し、またそれが後の科学で裏付けられる、というのもすごいことだと思います。)

しかしその一方で著者は、

転生というのは、そのことのわかりやすい表れに過ぎない。

と、
「転生」を否定もしていません。
「転生」についてこれ以上の記述はなかったので、著者の「転生」についての持論がどういうものかはわかりません。


すこし話はそれますが、

僕の『体験』、
ある瞬間にいくつもの映像が、いくつもいくつも切り替わりながら見えた『体験』、
そのとき見えたものは、もう明確には憶えていないのですが、
おぼろげながら、

鹿、木、空、葉っぱ、栗鼠、、とか、そんなものだった気がします。

僕の感覚としては、世界を構成しているものたちの映像が、たくさん急に、切り替わりながら見えた、という感覚だったのですが、

その時点で僕はすでに、
上記の世界観を持っていたので、

僕は、
「見えたもの」を「世界の構成物」として捉えたけれども、

もしも同じ『体験』をした人が、
僕のような世界観を持っていなかったとしたら、

その人は、
「見えたもの」を「自分の前世」として捉えたかもしれませんね。

そういう人はたぶん、
「輪廻」を「転生」として捉えるでしょう。

僕も、
その人も、
言っていることは違うけれども、
見たものはいっしょ、ということになりますね。


今日はこのへんで。




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by toshiokake2 | 2018-03-18 19:34 | 仏教思想のゼロポイント

「仏教思想のゼロポイント」より 第一回


はじめに


「仏教思想のゼロポイント」(魚川祐司・著)という本を読んだので、
その抜粋と、それにまつわる私の所見・感想などを記して行こうと思います。

というのも、
この本は図書館で借りたもので、期日が来たら返さなければなりません。

記録することで、後日に見返すことが出来るように、また、
いまの思考を整理しておくために、という、
私的な目的の記事になります。
興味のある方だけ、お読みいただくのが良いと思います。

引用箇所は多岐に渡りそうなのですが、
あまり一度にパソコンを触りすぎると疲れてしまって、仏教どころではなくなってしまうので、書いて30分、読んで5分程度を目安に、何回か続けて行こうと思います。(と言って、第二回、はたしてあるのか、、?という気もしますが)

さて、では第一回、始めさせていただきます。

・・・

以下、
引用は緑字、
僕の記述は黒字。

・・・

ゴータマ・ブッダは現象の世界内の諸要素のどれかが実体我であると考えることについては明確に否定しているが、常一主宰の実体我ではない経験我については、必ずしも否定していない(中略)否定されていない経験我、「自己を頼れ」という場合のその「自己」とは、いったどのようなものであろうか。
 結論から言ってしまえば、それは縁起の法則にしたがって生成消滅を繰り返す諸要素の一時的な(仮の)和合によって形成され、そこで感官からの情報が認知されることによって経験が成立する、ある流動しつづける場のことである。本章の冒頭に使用した言葉でパラフレーズするなら、それを「個体性」だと言ってもよい。(p.89)

これは、
『仏教では「無我」「無我の境地」というものがよく出て来るけど、
仏教は「自己」とか「私」といったものを否定しているの?』という一般的な疑問に答えた文章です。

仏教では、
万物は(自分を含めて)すべて無常で、生成消滅を繰り返すものだから、
絶対的な「私」という存在は無く、それに執着するのも無意味だ、と説きます。
これが著者の言うところの「実体我」の否定です。

では、
現実に存在するこの「私」は何なのか、ないのか、あるのか、と言えば、
それは「ある流動しつづける場」「経験我」である、というのが著者の仏教解釈です。

つまり、
「私」は絶対的に存在しているものではないが、
「私」と呼んでもいいような、絶対的ではない、一時的な集まりはある、
ということかと思います。

続けて著者は、
以下のように述べます。

 仏教に対するよくある誤解の一つとして、「悟り」とは「無我」に目覚めることなのだから、それを達成した人には「私」がなくなって、世界と一つになってしまうのだ、というものがある。だが、実際にはそんなことは起こらない。最初に述べたように、どれほど長く修行して、一定の境地に達したとされる僧侶であっても、身体が溶けて崩れるわけではないし、彼の視界が他者の視界と混ざるわけでもないし、彼の思考と他者の思考に、区別がなくなるわけでもない。ゴータマ・ブッダが「私」という言葉を使って説法をしたように、現代の高僧にも「私」はあるし、「個体性」だって残存しているのである。(p.90)

そう、
「無我」と「私」は併存するものだと、明記しています。

・・・

いきなりこんなとこの引用から始めて、ついてこれた人いるのか?
(というか、ここまで読んでる人いるのか?)
と思いますが、

今後もこうしたスタイル、
本の内容を、気になった箇所だけ引用・コメントする、というスタイルで続けさせていただこうと思っています。

「仏教思想のゼロポイント」は、
数年前に出たとき話題になって、僕も気になっていたのですが、
「あー、僕と同じようなこと考えてる人の本っぽいなー、読もうかな」て気持ちと、
「あーでも、僕と考えてること同じだったら、読まなくていっか」ていう気持ちがあって、読みませんでした。

結論から言うと、今回、読んで良かったです。
僕の考えてることと方向性は一緒なのですが、
いろいろな仏教思想をなるべく私情を出しすぎない形で紹介して、
客観的に論理的に話が進むので、読みやすく、面白いです。

たいへん論理的理解力・構成力が高く、
なおかつ感受性もある方なんだろうなー(この本では出してないけど)、
と感じました。


では、今日はこのへんで。




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by toshiokake2 | 2018-03-17 20:34 | 仏教思想のゼロポイント