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時が止まる


時が止まる
と言うと少々おおげさだし、意味も違っているかもしれない。

きのう伊勢佐木モールでもみほぐしのバイトをしていて、
お客さんをもみながら、あるとき、
時が止まったような感覚があった。

この表現は誤解を招きやすい。(あるいは間違っている)

正確に言うと、
その瞬間に自分の中の何かが静止した。

景色はハッキリ見え、
周りでほかのセラピストが動いているのも見えるのだけど、

何か、が、静止、したような感覚、

どちらかというと、

自分、が、止まっている、
自分の時、が、止まっている、

だけれども、

それを言語化するなら、

時が止まった、

そういう言葉が出て来た。

「時が止まる」と言うと、
「自分」は「動いて」いて、
「周り」が「止まって」いるようなイメージが浮かぶが、

そのときは、
「自分」が「止まって」いて、
「周り」が「動いて」いるような感覚があった。

そしてまた、
「自分」も物理的には「止まって」いるわけではなくて、
もみほぐしの手順を行っていた。

ただ、
「自分」の中の「何か」が「止まって」いる感じ。

悟り関連で色々しらべたときに、
時間が止まる、というようなことを読んだから、
あ、もしかしてこれかな?ちがうかな? と、思った。
(だから「時間が止まる」という言葉が出て来たのかもしれない)

ただ、
そんな自分を客観的に見ている自分もいて、
おっ、なんだこれ、たのしいな、というのと、
あ、でもこれ、このあとの手順とか思い出さないと仕事オワルな、というのもあって、
すぐに元の状態に戻った(戻した?)。

・・・

今日もバイクを運転しながら、そのことを思い出して、やってみたら、できた。
(でも危ないので、すぐにやめた。)

ん? じゃあ、いま、も出来るんじゃ?

ブログ書く手を止めて、やってみたら出来た。

・・・

サボりサボりだけど、
ときどき瞑想をしている。効果があるのかもしれない。ないのかもしれない。

ぜんぜん関係ないのかもしれない。
わからない。

・・・

いま、
「メッセージ」という映画を二回目見ている。
見ていたら上記のことを思い出したのでメモです。

「メッセージ」は、
言語の線形・非線形とか、
僕が近ごろ考えていたような事がよく出てくるので、
そういう部分を刺激されます。

よいです。

なんかこういう、折にふれたタイミングというのは必要(?)かなと思います。

仏教もきっと、そういうシステムで作られてるんじゃないかな?




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by toshiokake2 | 2018-07-30 23:11 | Notes

夏の夜


夏の夜は誰しもにやさしい

花火大会のつぎの日
ホームレスのおじちゃんにポテトチップスの袋をもらったことがあった





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by toshiokake2 | 2018-07-15 02:41 | Notes

日記 今日は


今日は伊勢佐木モールにマッサージのバイトに行って、
そのあと新しいバスBARに行った。
急に呼び出した友人が二人来てくれた。

現政権支持派の人と話す機会があった。
森友・加計問題は、現政権支持派にはあんまり意味がなく、そんなことより自分に安心して暮らせる収入があればいい、とのこと。そうだろうな、と思ってたので、推論が裏付けられて良かった。

その現政権支持派の人も、
自分には自信がない、
反政権派の人は自分に自信がある人、一人でもやってけると思ってる人、
自分はそうではない、自分に自信がないから、現政権を支持してる、と言っていた。
包み隠さずストレートでいいな、と思った。

そのあと旧バラ荘に行った、
初めて行った。
ラフロイグとジンリッキーを飲んで帰った。

帰ってベルギー対イングランドの後半を見た。

今日マッサージしたお姉さんの一人が、
「ズゴゴォォオオ!! ググァァアアア!! グルァァアアア!!」と、
虎? って思うようなイビキを立ててて、面白かった。




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by toshiokake2 | 2018-07-15 02:14 | Notes

またいろいろなことが 日記


朝起きて水道の仕事に行って、今日は二時で切り上げた。
仕事が終ったら法テラスに行って、半年前のもらい事故の賠償金の相談をした。
それから時間があいたので、また家の近くの臨済宗のお寺に行った。いただいた公案の答えが出たのでお伝えするため。住職に答えを伝えて、それでいいです、と言われた。

「それなら、ひとまず最初のところは、、だいじょうぶです。自信を持ってください。」と言われた。見性(ケンショウ・悟りのこと)しているそうです。
それから、そのお寺で定期的にやってらっしゃる座禅会にお誘いいただきました。また、これから公案の答えを住職に伝えに行く時の作法も教わりました。新たな公案もいただきました。

僕が最初にもらった公案は、

「あなたの、お父さんもお母さんも生まれる前、あなたはどこに居ましたか?」

というものでした。

「父母未生以前 本来の面目」(フボミショウイゼン ホンライノメンモク)
というそうです。

試しの公案です、とも言っていました。

・・・

お寺を出たら天王町の松原商店街に行って、ハムカツ3枚とチキンカツ、特売だったキノコのてんぷらを買いました。ついでに399円のアロハシャツも買いました。それとビール2本。

帰ってプロジェクターつけて、ハムカツにソースだぼだぼかけて、食べながら、ビール飲みながら、相撲を見ました。

そろそろ娘と元妻が帰って来るので、会いに行ってこようかな。

・・・
・・・

補足

臨済宗・公案(リンザイシュウ・コウアン)
日本に伝わる主な禅宗は二つ、曹洞宗と臨済宗。どちらも悟りをメインテーマとしますが、曹洞宗は座禅により一気に悟りへ到達する手法をとり、臨済宗は「公案」と呼ばれるクイズのような問いをいくつか解いて行くことによって、だんだんと悟りに近づいて行く手法をとります。(あくまで僕の解釈です)

高価な壷を売るのは、まだだいぶ先になりそうです。



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by toshiokake2 | 2018-05-25 19:09 | Notes

今日の日記 つづき


もう日付が変わってしまったけど、今日の日記の続きです。

相撲を見終わってブログを書いて娘&元妻宅へ行った。
今日あったことをしゃべった。

試聴室へ行った。
今日あったことをしゃべった。悟り系に興味のある人がいて良かった。ARTの話にも派生した。ARTとは自然をまとめあげる行為だそう。腑に落ちた。

話の途中で娘に電話した。あとで行けたら行くけど、行けなかったら電話するよ、と言ってあったから。

娘と話したりすごす温かなモード、
悟りとか仏教系の静かなモード、
同時併存はむずかしい。
どちらも行き来しながら、どちらも少しずつ進めています。




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by toshiokake2 | 2018-05-18 01:15 | Notes

今日はすごく


今日はすごく沢山の事があった。

朝職場に行ったら今日の仕事が半分に減っていた。通信の都合と事前準備の不手際によるものだそう。交渉して賃金全額補填してもらった。

仕事中に曹洞宗のお寺に電話した。以前から老師との面会のアポを取ろうとしていて、引き延ばされている所。再度お願いした。
仕事エリア内の、また別のお寺にも寄ってみた。浄土宗のお寺だった。意外とすんなり会ってくれて、話を聞いてくれた。

仕事から帰って、近所のお寺にも寄ってみた。こちらは臨済宗で、外からの構えがあまり好きでなかったので、足が向かなかった所。寄ってみると、中は意外と雰囲気が良く、こちらも住職さんがすんなり会ってくれた。僕の悟り的体験についての質問をした。住職は、私もそうした体験を何度も繰り返しています、と言った。やった。やっと巡り会った。さすが禅宗。ていうかこんな近くにいたのかー。
だいぶいい話が出来た。行って良かった。公案をもらった。帰りに川沿いを歩いた。

帰って相撲を見ながらバスバーのマスターに電話した。こちらはかってに心配していたけど、あちらはとっくに新しい店を始めていた。

ほんとうに沢山のことがあった。

臨済宗の住職から、向下、コウゲ、というのを教わった。



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by toshiokake2 | 2018-05-17 19:02 | Notes

仮説 フォント ドット


仮説 フォントとドット そして世界認識について


<導入>

わたしが見ているこの文字と、
あなたが見ているこの文字は、
モニター、あるいは液晶上の、ドットで構成されています。

画面をスクロールさせると、
画面上を文字がすべるように見えますが、

実際には、
それぞれのドットが色を変えて、
「文字がすべっている」という「錯覚」を見せています。
(アニメーションがコマ送りを連続に見せるのと似ていますね)


<本文>

この文字。
この文字をつくっているドット。

ドット、それ自体には意味はありません。
ドットが文字の形をつくり、そのドットの並びを見て、わたしとあなたが文字だと認識しています。

ドットが光ります。
ドットの光が目に入り、目はその情報を脳に送ります。

(この時点では、ドットに「意味」はありません)
(脳は「ドット」を「文字」と認識していません)

脳は、目からの情報を、脳の過去の情報と照合する。
照合の結果、それが脳の知っている「文字」だと判定する。
脳はその「文字」を、また脳に送り、それを読む。
ここで「意味」が発生する。
(QRコードをURLに変換するのと似ていますね)

つまり、

文字は、
この画面上に映っているものは(映っている段階では)無意味なのです。
この目の前の文字に、意味を与えているのは、自分なのです。

この文章を見て、
あなたはわたしが書いたと錯覚しますが、
現実には、
無意味なドットの配列を、あなたが受け取り、あなたの脳がそれを文字として構成し、あなたの脳がそれを受け取り、読んでいます。

あなたが書いて、あなたが読んでいる。

突飛に聞こえるかもしれませんが、
一面の物理的事実です。


<派生>

上記のフォント・ドットについての考察は、
そのまま現実世界で見聞きすることにも当てはまります。


<余談1>

Kayu Nakada さんの A circuit not turning というアルバムを聞いていたら、こういうことを考えていました。

e0297318_10442765.jpg

<余談2>

先日、友人からこう言われました。
「へそくんは、線を引く人間なのに、線をまたいでしまった人だね」

僕はかつて科学信奉者で、いまも科学的思考にウェイトがあります。
超常現象などは信じないタイプでしたが、あるときふいに不思議な体験をして、そこから世界観や人生観がだいぶ変わりました。友人の言葉は、僕のそういう部分をさしてのことかと思います。

上の文章は、
科学的であり、仏教的です。
アインシュタインをはじめ、多くの科学者が、「科学と最も相性の良い宗教は仏教」と言っていたそうですね。


<連絡先>

yokohamahesoma@gmail.com

いまだ不明なことの多い未熟者です。上記文章に誤りなどありましたらご指摘いただけると嬉しいです。またアドバイス、ご感想なども歓迎しております。


へそ



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by toshiokake2 | 2018-04-26 11:11 | Notes


ちかごろよく 仏教的なことを考えていて
気づきを得て心がしずかになる時も増えています
疲労がたまり混迷を深めている時も増えています

思考を消して
知覚を残すことが
ブッダの仏教の悟りの手法だとしたら

考えてばかりいると 思考に偏重するので
混迷を深めるのは当然のようにも 思えます

マッサージ

マッサージを学んでいて混迷が深まることはない
マッサージは思考よりも体に意識のウェイトがあるからでしょうか
考えるタイプの疲労はない

考える時間より
マッサージを学ぶ時間を増やした方が良さそうですが

こういう性分です
考えるクセがあります

畑に行って土を触ると さわやかな気持ちになる
すごく疲れていても 気付くと疲れが消えていることがある
畑を降りて街に戻ると そのさわやかさは消えて行く

あれはなんなんだろう

あ、また考えてる(苦笑)



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by toshiokake2 | 2018-04-05 07:10 | Notes

潮田公園


潮田公園で昼食をとった。
おにぎり二つとシャケ。家から持って来たもの。

まだ11時台だったこともあって、
学童だろうか?小学生ぐらいの子供達たくさんと、大人が少し、遊んでいた。

ゾンビと人間に分かれて、人間が逃げる、
人間はゾンビに触られるとゾンビになるが、ワクチンを打ってもらうと人間に戻れる、
というユニークな遊びで、鬼ごっこやドロケイの亜種のような遊びだった。

見ているとワイワイキャーキャー楽しい。

他力本願のことを考えていた。

他力に委ねられたこの世界、
自分も他力で動いている、
自分も他人も、他力で動かされている、

自分も他人である。
自分も他人も一緒である。

そう思った。

目の前で子供が跳ねていた。

跳ねている子供が僕で、
それを見ている僕が、跳ねている子供だ。

そう見れた。

すこし涙が流れた。


しかして、


メシを食って、
バイクにまたがって、運転していると、
どうもそういう安らかな気持ちになれない。

これはなんだろ、
どうしたもんだろ、

今度はこの胃を自分として、
自分を他人としてみるか、、とすると、少しうまくいった。


・・・


ちかごろ幾度か、
『体験』のころのように、
自分と世界の分別の消えた静寂に身をゆだねてみよう、とすることがあった。

そのころのようにうまく行くわけではないけど、
樹々や風や地面とは、同一化したような感覚をつくることが、少しできた。

人とはむずかしかった。
車ともむずかしかった。

人とできたのは、今日がはじめてだったかもしれない。

親鸞にふれていることが、
関係しているのかもしれない。


南無阿弥陀仏、の意味はいまだに捉えられない。
けれども、

南無阿弥陀仏と唱えていると、
思考は消えて行く。

無意識、
知覚、
思考、

このうちの、
思考、を消して、
知覚、を残すのが、悟りの方法だと書いてあるものがあった。

そうだとすると、

南無阿弥陀仏と、ただ唱えよ、という親鸞の教えは、

単純で阿呆臭いようでありながら、
実は科学的で実践的な手法かもな、

と思ったりもします。



・・・


仏教・思想の解釈については、僕は今はそう捉えている、という程度のものとしてご理解ください。




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by toshiokake2 | 2018-04-03 19:42 | Notes

ただの日記


今日あったこと、

うんこ、
潮田公園、
食事、
南無阿弥陀仏、
帰宅、
昼寝、
あっかんべェ一休、
宅急便、
芽、、

・・・

「あっかんべェ一休」(坂口尚・著)というマンガをここ数日読んでいます。これは僕の「悟りのような体験」に似た体験が描写されている数少ないマンガで、十数年前に読んだけど、今回また買って読んでいます。いまあらためて読むと、また発見があって、、

今回は、下記の言葉、

私には
常なるものが
無いようにも

また
常なるものが
有るようにも
思えます……

という言葉を発見しました。
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最初に読んだころは何気なく読み進めてしまったのですが、
これは仏教の基本である「無常」についての言葉で、ここで一休は、

「無常」をまず肯定し、そしてなんと、
「無常」を否定もしている(ようにも見える)、という、

仏教の基本「無常」を根底からゆるがす(ようにも見える)発言なわけで、
仏教を少々かじってみた今読むと、すごいなぁ、、となるわけです。(※1)

目を覚まされたような思いがしました。


そうなんですよね。

仏教を学んだからと言って、それを鵜呑みにしなくてはいけない訳ではないんですよね。仏教は世界の一つの見方であって、世界は仏教以前から存在しているわけですから、、仏教を学び、それを咀嚼して、自らの世界の見方を作って行くことが、、それをブッダも良しとするんじゃないかな、、なんて、かってに思ってしまいました。


さて。

ちかごろはこんなマジメな仏教くさいことばっか考えてるワケなんですけどね。

そんなワタクシ、
けさ水道のお仕事に行きますと、
事務所に入る前に、どうもウンコがしたくなったんですね。

水道のお仕事中にウンコ、となりますと、
これはもう、

現場仕事を中断して、徒歩でバイクのとこまで戻って、ウンコをガマンしながらバイクにまたがり全速力で移動、その途中、「いま事故ったら確実にウンコもらす、悲惨な事故現場になる、それだけは絶対にイヤだーー!」と思いながら、必死でバイクで駆けて、コンビニへ突入、用を足してまた戻って、、

と、
たいへんなタイムロスになるワケですね。

だもんですから、
今朝のように、出勤直前に便意、となりますと、
これはもう、絶対確実に、用を足してから出勤したいワケなんですね。

ですから、
事務所の一階のローソンに入ったんですよね。ローソンのトイレに。

ぷぅ。

オナラは出るけど便は出ない。
うーん。。

15分粘りました。
出ません。

ウンコは出ないのにオナカは痛い。
便秘ですね、便秘。

困ったけど仕方ないので、事務所に出勤しました。
そこで出発前作業などしていると、ほどよく便意が育ちましたので、
事務所のトイレで事無きを得たわけですが、、

・・なんかこう、ウンコしてるときって、すごい生きてるカンジしません?

自分が自分にかえって来てるというか、、
自分のなかにしっかり自分がいるというか、、


一方で、

『悟りのような体験』のあとには、
自分のなかに自我がうすくなり、世界は自分、自分は世界、のような感覚になります。そして、自分は、「自分という人間として」いるのだけど、「世界として」自分と世界をおだやかに見つめているような感覚になります。(※2)

「自分」のなかに、「自分」があんまりいないんですよね。

で、わりとちかごろは、
そういう状態に近づけようとしてるんですけど、

でも、ウンコしてるときは、

強烈に、

「自分」のなかに、「自分」がいるかんじ、しますね。

とくに便秘のときは。


むかしの、
悟りを得た人は、
ウンコのときも涅槃にいたのかな〜、
どうなのかな〜、

なんて思っちゃいました。



長くなったので、いったん終わりますね。



・・・



注釈
(※1)仏教についてまだカジった程度なので、、解釈が間違っていたらすいません。
(※2)語弊有ると思いますが、、簡単に書かせていただきました。あと「悟り」問題はデリケートなので、、ご気分害する方いらしたらスイマセン。


・・・


追記
読み返してみると、、
一休(著者・坂口尚)は無常を否定しているのではなく、輪廻(現象の継起)のことを「常なるものが有るようにも思えます」と表現しているのかな、、?



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by toshiokake2 | 2018-04-03 18:42 | Notes