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またいろいろなことが 日記


朝起きて水道の仕事に行って、今日は二時で切り上げた。
仕事が終ったら法テラスに行って、半年前のもらい事故の賠償金の相談をした。
それから時間があいたので、また家の近くの臨済宗のお寺に行った。いただいた公案の答えが出たのでお伝えするため。住職に答えを伝えて、それでいいです、と言われた。

「それなら、ひとまず最初のところは、、だいじょうぶです。自信を持ってください。」と言われた。見性(ケンショウ・悟りのこと)しているそうです。
それから、そのお寺で定期的にやってらっしゃる座禅会にお誘いいただきました。また、これから公案の答えを住職に伝えに行く時の作法も教わりました。新たな公案もいただきました。

僕が最初にもらった公案は、

「あなたの、お父さんもお母さんも生まれる前、あなたはどこに居ましたか?」

というものでした。

「父母未生以前 本来の面目」(フボミショウイゼン ホンライノメンモク)
というそうです。

試しの公案です、とも言っていました。

・・・

お寺を出たら天王町の松原商店街に行って、ハムカツ3枚とチキンカツ、特売だったキノコのてんぷらを買いました。ついでに399円のアロハシャツも買いました。それとビール2本。

帰ってプロジェクターつけて、ハムカツにソースだぼだぼかけて、食べながら、ビール飲みながら、相撲を見ました。

そろそろ娘と元妻が帰って来るので、会いに行ってこようかな。

・・・
・・・

補足

臨済宗・公案(リンザイシュウ・コウアン)
日本に伝わる主な禅宗は二つ、曹洞宗と臨済宗。どちらも悟りをメインテーマとしますが、曹洞宗は座禅により一気に悟りへ到達する手法をとり、臨済宗は「公案」と呼ばれるクイズのような問いをいくつか解いて行くことによって、だんだんと悟りに近づいて行く手法をとります。(あくまで僕の解釈です)

高価な壷を売るのは、まだだいぶ先になりそうです。



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by toshiokake2 | 2018-05-25 19:09 | Notes

今日の日記 つづき


もう日付が変わってしまったけど、今日の日記の続きです。

相撲を見終わってブログを書いて娘&元妻宅へ行った。
今日あったことをしゃべった。

試聴室へ行った。
今日あったことをしゃべった。悟り系に興味のある人がいて良かった。ARTの話にも派生した。ARTとは自然をまとめあげる行為だそう。腑に落ちた。

話の途中で娘に電話した。あとで行けたら行くけど、行けなかったら電話するよ、と言ってあったから。

娘と話したりすごす温かなモード、
悟りとか仏教系の静かなモード、
同時併存はむずかしい。
どちらも行き来しながら、どちらも少しずつ進めています。




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by toshiokake2 | 2018-05-18 01:15 | Notes

今日はすごく


今日はすごく沢山の事があった。

朝職場に行ったら今日の仕事が半分に減っていた。通信の都合と事前準備の不手際によるものだそう。交渉して賃金全額補填してもらった。

仕事中に曹洞宗のお寺に電話した。以前から老師との面会のアポを取ろうとしていて、引き延ばされている所。再度お願いした。
仕事エリア内の、また別のお寺にも寄ってみた。浄土宗のお寺だった。意外とすんなり会ってくれて、話を聞いてくれた。

仕事から帰って、近所のお寺にも寄ってみた。こちらは臨済宗で、外からの構えがあまり好きでなかったので、足が向かなかった所。寄ってみると、中は意外と雰囲気が良く、こちらも住職さんがすんなり会ってくれた。僕の悟り的体験についての質問をした。住職は、私もそうした体験を何度も繰り返しています、と言った。やった。やっと巡り会った。さすが禅宗。ていうかこんな近くにいたのかー。
だいぶいい話が出来た。行って良かった。公案をもらった。帰りに川沿いを歩いた。

帰って相撲を見ながらバスバーのマスターに電話した。こちらはかってに心配していたけど、あちらはとっくに新しい店を始めていた。

ほんとうに沢山のことがあった。

臨済宗の住職から、向下、コウゲ、というのを教わった。



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by toshiokake2 | 2018-05-17 19:02 | Notes

仮説 フォント ドット


仮説 フォントとドット そして世界認識について


<導入>

わたしが見ているこの文字と、
あなたが見ているこの文字は、
モニター、あるいは液晶上の、ドットで構成されています。

画面をスクロールさせると、
画面上を文字がすべるように見えますが、

実際には、
それぞれのドットが色を変えて、
「文字がすべっている」という「錯覚」を見せています。
(アニメーションがコマ送りを連続に見せるのと似ていますね)


<本文>

この文字。
この文字をつくっているドット。

ドット、それ自体には意味はありません。
ドットが文字の形をつくり、そのドットの並びを見て、わたしとあなたが文字だと認識しています。

ドットが光ります。
ドットの光が目に入り、目はその情報を脳に送ります。

(この時点では、ドットに「意味」はありません)
(脳は「ドット」を「文字」と認識していません)

脳は、目からの情報を、脳の過去の情報と照合する。
照合の結果、それが脳の知っている「文字」だと判定する。
脳はその「文字」を、また脳に送り、それを読む。
ここで「意味」が発生する。
(QRコードをURLに変換するのと似ていますね)

つまり、

文字は、
この画面上に映っているものは(映っている段階では)無意味なのです。
この目の前の文字に、意味を与えているのは、自分なのです。

この文章を見て、
あなたはわたしが書いたと錯覚しますが、
現実には、
無意味なドットの配列を、あなたが受け取り、あなたの脳がそれを文字として構成し、あなたの脳がそれを受け取り、読んでいます。

あなたが書いて、あなたが読んでいる。

突飛に聞こえるかもしれませんが、
一面の物理的事実です。


<派生>

上記のフォント・ドットについての考察は、
そのまま現実世界で見聞きすることにも当てはまります。


<余談1>

Kayu Nakada さんの A circuit not turning というアルバムを聞いていたら、こういうことを考えていました。

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<余談2>

先日、友人からこう言われました。
「へそくんは、線を引く人間なのに、線をまたいでしまった人だね」

僕はかつて科学信奉者で、いまも科学的思考にウェイトがあります。
超常現象などは信じないタイプでしたが、あるときふいに不思議な体験をして、そこから世界観や人生観がだいぶ変わりました。友人の言葉は、僕のそういう部分をさしてのことかと思います。

上の文章は、
科学的であり、仏教的です。
アインシュタインをはじめ、多くの科学者が、「科学と最も相性の良い宗教は仏教」と言っていたそうですね。


<連絡先>

yokohamahesoma@gmail.com

いまだ不明なことの多い未熟者です。上記文章に誤りなどありましたらご指摘いただけると嬉しいです。またアドバイス、ご感想なども歓迎しております。


へそ



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by toshiokake2 | 2018-04-26 11:11 | Notes


ちかごろよく 仏教的なことを考えていて
気づきを得て心がしずかになる時も増えています
疲労がたまり混迷を深めている時も増えています

思考を消して
知覚を残すことが
ブッダの仏教の悟りの手法だとしたら

考えてばかりいると 思考に偏重するので
混迷を深めるのは当然のようにも 思えます

マッサージ

マッサージを学んでいて混迷が深まることはない
マッサージは思考よりも体に意識のウェイトがあるからでしょうか
考えるタイプの疲労はない

考える時間より
マッサージを学ぶ時間を増やした方が良さそうですが

こういう性分です
考えるクセがあります

畑に行って土を触ると さわやかな気持ちになる
すごく疲れていても 気付くと疲れが消えていることがある
畑を降りて街に戻ると そのさわやかさは消えて行く

あれはなんなんだろう

あ、また考えてる(苦笑)



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by toshiokake2 | 2018-04-05 07:10 | Notes

潮田公園


潮田公園で昼食をとった。
おにぎり二つとシャケ。家から持って来たもの。

まだ11時台だったこともあって、
学童だろうか?小学生ぐらいの子供達たくさんと、大人が少し、遊んでいた。

ゾンビと人間に分かれて、人間が逃げる、
人間はゾンビに触られるとゾンビになるが、ワクチンを打ってもらうと人間に戻れる、
というユニークな遊びで、鬼ごっこやドロケイの亜種のような遊びだった。

見ているとワイワイキャーキャー楽しい。

他力本願のことを考えていた。

他力に委ねられたこの世界、
自分も他力で動いている、
自分も他人も、他力で動かされている、

自分も他人である。
自分も他人も一緒である。

そう思った。

目の前で子供が跳ねていた。

跳ねている子供が僕で、
それを見ている僕が、跳ねている子供だ。

そう見れた。

すこし涙が流れた。


しかして、


メシを食って、
バイクにまたがって、運転していると、
どうもそういう安らかな気持ちになれない。

これはなんだろ、
どうしたもんだろ、

今度はこの胃を自分として、
自分を他人としてみるか、、とすると、少しうまくいった。


・・・


ちかごろ幾度か、
『体験』のころのように、
自分と世界の分別の消えた静寂に身をゆだねてみよう、とすることがあった。

そのころのようにうまく行くわけではないけど、
樹々や風や地面とは、同一化したような感覚をつくることが、少しできた。

人とはむずかしかった。
車ともむずかしかった。

人とできたのは、今日がはじめてだったかもしれない。

親鸞にふれていることが、
関係しているのかもしれない。


南無阿弥陀仏、の意味はいまだに捉えられない。
けれども、

南無阿弥陀仏と唱えていると、
思考は消えて行く。

無意識、
知覚、
思考、

このうちの、
思考、を消して、
知覚、を残すのが、悟りの方法だと書いてあるものがあった。

そうだとすると、

南無阿弥陀仏と、ただ唱えよ、という親鸞の教えは、

単純で阿呆臭いようでありながら、
実は科学的で実践的な手法かもな、

と思ったりもします。



・・・


仏教・思想の解釈については、僕は今はそう捉えている、という程度のものとしてご理解ください。




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by toshiokake2 | 2018-04-03 19:42 | Notes

ただの日記


今日あったこと、

うんこ、
潮田公園、
食事、
南無阿弥陀仏、
帰宅、
昼寝、
あっかんべェ一休、
宅急便、
芽、、

・・・

「あっかんべェ一休」(坂口尚・著)というマンガをここ数日読んでいます。これは僕の「悟りのような体験」に似た体験が描写されている数少ないマンガで、十数年前に読んだけど、今回また買って読んでいます。いまあらためて読むと、また発見があって、、

今回は、下記の言葉、

私には
常なるものが
無いようにも

また
常なるものが
有るようにも
思えます……

という言葉を発見しました。
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最初に読んだころは何気なく読み進めてしまったのですが、
これは仏教の基本である「無常」についての言葉で、ここで一休は、

「無常」をまず肯定し、そしてなんと、
「無常」を否定もしている(ようにも見える)、という、

仏教の基本「無常」を根底からゆるがす(ようにも見える)発言なわけで、
仏教を少々かじってみた今読むと、すごいなぁ、、となるわけです。(※1)

目を覚まされたような思いがしました。


そうなんですよね。

仏教を学んだからと言って、それを鵜呑みにしなくてはいけない訳ではないんですよね。仏教は世界の一つの見方であって、世界は仏教以前から存在しているわけですから、、仏教を学び、それを咀嚼して、自らの世界の見方を作って行くことが、、それをブッダも良しとするんじゃないかな、、なんて、かってに思ってしまいました。


さて。

ちかごろはこんなマジメな仏教くさいことばっか考えてるワケなんですけどね。

そんなワタクシ、
けさ水道のお仕事に行きますと、
事務所に入る前に、どうもウンコがしたくなったんですね。

水道のお仕事中にウンコ、となりますと、
これはもう、

現場仕事を中断して、徒歩でバイクのとこまで戻って、ウンコをガマンしながらバイクにまたがり全速力で移動、その途中、「いま事故ったら確実にウンコもらす、悲惨な事故現場になる、それだけは絶対にイヤだーー!」と思いながら、必死でバイクで駆けて、コンビニへ突入、用を足してまた戻って、、

と、
たいへんなタイムロスになるワケですね。

だもんですから、
今朝のように、出勤直前に便意、となりますと、
これはもう、絶対確実に、用を足してから出勤したいワケなんですね。

ですから、
事務所の一階のローソンに入ったんですよね。ローソンのトイレに。

ぷぅ。

オナラは出るけど便は出ない。
うーん。。

15分粘りました。
出ません。

ウンコは出ないのにオナカは痛い。
便秘ですね、便秘。

困ったけど仕方ないので、事務所に出勤しました。
そこで出発前作業などしていると、ほどよく便意が育ちましたので、
事務所のトイレで事無きを得たわけですが、、

・・なんかこう、ウンコしてるときって、すごい生きてるカンジしません?

自分が自分にかえって来てるというか、、
自分のなかにしっかり自分がいるというか、、


一方で、

『悟りのような体験』のあとには、
自分のなかに自我がうすくなり、世界は自分、自分は世界、のような感覚になります。そして、自分は、「自分という人間として」いるのだけど、「世界として」自分と世界をおだやかに見つめているような感覚になります。(※2)

「自分」のなかに、「自分」があんまりいないんですよね。

で、わりとちかごろは、
そういう状態に近づけようとしてるんですけど、

でも、ウンコしてるときは、

強烈に、

「自分」のなかに、「自分」がいるかんじ、しますね。

とくに便秘のときは。


むかしの、
悟りを得た人は、
ウンコのときも涅槃にいたのかな〜、
どうなのかな〜、

なんて思っちゃいました。



長くなったので、いったん終わりますね。



・・・



注釈
(※1)仏教についてまだカジった程度なので、、解釈が間違っていたらすいません。
(※2)語弊有ると思いますが、、簡単に書かせていただきました。あと「悟り」問題はデリケートなので、、ご気分害する方いらしたらスイマセン。


・・・


追記
読み返してみると、、
一休(著者・坂口尚)は無常を否定しているのではなく、輪廻(現象の継起)のことを「常なるものが有るようにも思えます」と表現しているのかな、、?



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by toshiokake2 | 2018-04-03 18:42 | Notes

線 雑想メモ


雑想メモ


アタマで考えるときは、
思考は「線」の上にある。

AだからB、BだからC、CだからDだから、、、という風に。

でもやっぱり、
AだからPで、PだからQかな、、? というときも、

やはりそちらはそちらで、そちらの「線」の上にある。


ジッサイの経験、
たとえば、

朝起きる、煙草を吸う、雨を見る、などは、

その瞬間には、それ単独で経験する。

「線」の上にはない。


あとから記憶になると、

朝起きてから、煙草を吸ってから、雨が降っていたのを見た、と、

「線」の上にあったように見えるが、

経験している瞬間は、「線」の上には見ていない。


まえに、

ふいに、

脳内にたくさんの映像がよぎり、
至福に包まれたことがある、と書いた。

あれは何だったんだろう?

と、よくかんがえるけれど、

15年たったいまでも、答えにはたどりつかない。


似た経験をした人も、
いくらか居るようだ。

だけど、だれも、
それを明確に語り、伝えられる人はいない。


これはそもそも、
それが言語思考の限界、

アタマで考える「線」の思考、

その限界を、
超えてしまっているからではないだろうか。



量子論の多世界解釈、

というデイヴィッド・ドイッチュの解釈があって、

彼の解釈によれば、
世界はいまこの瞬間にも複数に枝分かれして行っている。

この、
SFのような解釈を否定できた人はいまだ無く、

また、
量子の世界で起こっていることの意味を説明できた人もいない。



曼荼羅、
が、ふとあたまに浮かんだ。

世界は1つの「線」の上には無く、
放射状に広がり枝分かれして行く、「複数の線」の上に在るのかもしれない。
私が見ているのは、その「複数の線」たちのうちの1つかもしれない。

曼荼羅、
は、その表現だったんだろうか。


そういえばGOMAさんも、やたら曼荼羅を描いていたなあ・・


・・・


いささか、
論理的な整合性に欠ける文章ですいません。
(そもそも、論理的整合性を求めるのが間違っているのかもしれません)

また、
拙い部分もいくらか、
言語を思考に用いるものに限定していたり、
曼荼羅の一般的解釈を無視していたりすること、
ご容赦いただけるとさいわいです。


・・・


今日はマッサージの練習に、
自分のふくらはぎを揉んだりしていて、

そうすると血流がよくなって、
急にアタマが回りだして、

こんなことを考えたり、
そういうことが、ちかごろは、時々あります。




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by toshiokake2 | 2018-03-05 23:14 | Notes

きのう


きのう象の鼻テラスで佐立さんと王舟さんともう一人のライブに行った。
佐立さんよかった、王舟さんも安定の良さだった。
最後に3人でカバーをやった、テニスコーツの光輪のカバー。

「ああもうすべてはきっと なんの価値もないんだよ」

この歌詞が植野さん(テニスコーツ)のバージョン(原曲)だと哀しく響いていたが、きのうは、アンコール3人でやる、という祝祭的気分が演奏者に影響したのか、

すべては なんの価値もない

という言葉が前向きに、すこし明るくひびいた。

すべてになんの価値もないということは、なににも甲乙がなく、そうしたことをなにも、考えなくてよいということです。

雪の、広くつづいてゆく雪原のイメージが見えた。

しずかで無情で平等な世界。
なにもないから、解放されていて、自由な世界。

・・・

鈴木大拙の、日本的霊性、という本を、人にすすめられて読んでいます。
浄土真宗や親鸞にかかわる記述が多い。

親鸞の他力本願、絶対他力、とは、

まず、

「自力の無力さ」を知ること、
そしてそこから、自分が「生かされている存在」であることを知ること、

そこが肝ではなかろうかと思います。

自力を手放し、

解放されること、無力であるがゆえに自由だと知ること、

そして、

絶対他力に身をゆだねているがゆえの、安心感とともにあること、


自分は、
いまは、
そういうふうにとらえています。


他力、についての解釈は、まだ、
浄土真宗がどうとらえているのか、僕の経験と照らしあわせたイメージと合致するのか、どうか、まだわかりませんし、まだまだ知り始めの段階ではあるのですが、

鈴木大拙の言っていることは、
わりと自分に馴染むところも多いです。

・・・

MELODY KOGA さんの FLOWERS というアルバムの紹介を、ふと今日も目にしました。同じコード4つしか使ってない。ずっと同じコード進行に、それぞれの言葉が乗っている。

お寺の鐘のよう。

お寺の鐘や、お経のように、ずっとおなじリズム。

仏教のことを考えている時期に、MELODY KOGAさんの曲が合うように感じるのは、そういうところがあるのかもな、と思ったりしました。

・・・

仏教のことを考える時期に入っているようです。

15年前に、

ある経験をきっかけに、

仏道に入るか、
ヴィレッジヴァンガードで働くか、

の2択で迷った時期がありました。

当時は、
若いときしかできないこと、
ヴィレッジヴァンガードを優先しました。

少し前までやっていたお店も、
ヴィレッジヴァンガードの延長線上にあるもので、
まあ、ゆったら、15年ヴィレッジヴァンガードやっていたようなもんです。


それにも、ひと一区切りついて、

この時期にまた、
仏教的な出会いがありました。


お坊さんになってほしい、と、
なかば冗談ではありますが、ちかごろ言っていただいたこともあります。

よほどお坊さん的な性質を、自分のなかに持っていますが、

その一方で、

またちがう性質もあります。


ずっと、お坊さんだけをやれる性質では、ないような気がします。


それでもやはり興味が、とても興味があるので、
こうして、本を読んだりしています。



どうなるんでしょうね?


すこしずつ歩きながら、だんだんたしかめていくのみです。

だんだんたしかめられていく、かな?





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by toshiokake2 | 2018-02-04 21:51 | Notes

ノスタルジー


朝っぱらの六時から目が覚めて江ノ島まで原チャリで行って来た。
まだ寒さで膝が笑っている。
片道五十分の道程。

二十歳の頃、戸塚に住んでいた時は、
たまにこうして深夜や早朝に江ノ島へ行ったりしていた。
(どうも僕にはそういう習性があるようです)

江ノ島の堤防の上で煙草を吸って、
いくらか歩いて、
またバイクにまたがって鎌倉方面へ海沿いを走る。

少し走ると、
一年か二年前に一泊したゲストハウスの近くを通る。
確かあれはチャンピオンズリーグの決勝の日だったから、2016年の春かな。
僕もその頃は横浜でゲストハウスーーと言うよりは民泊ーーをやっていて、AirBNBという仲介サイトを使っていた。気狂いマリー、という史上もっとも問題児なお客さんが居て、彼女がサイトにクレームを報告したから、それについて、サイト宛てに、「それは彼女の捏造で、僕は出来るだけのことはしましたが、彼女との関係は残念な結果になりました」という旨の長文メールを送ったら、「あなたは悪くありません。今回のことでは大変でしたね。五千円相当のクーポン券を差し上げますので、どうか羽を伸ばして来て下さい。」と信じられないほど親切な返事が来た。特に旅の予定もなかったが、せっかくなので鎌倉のゲストハウスを予約して一泊した。

そんなことを思い出しながら、
海辺にバイクを止めて砂浜を少し歩いた。

それから何となく帰路に向かう。
急ぐ旅ではないので、グーグルマップは見ない。
知らない町を、勘を頼りに進むのは楽しい。(ただ、寒い。)

帰り道に、戸塚へ向かう標識が有ったので、それに従う。
戸塚は、僕が十三歳から二十一歳まで過ごした場所だ。

戸塚の、かつて住んでいたマンションへ行ってみた。
もう身寄りなど居ないし、
十八年も前のことだし、
殺風景で、風情のあるようなマンションではないのだけど、

意外と、
その中二階の遊歩道を歩いていると、じんわりと来るものが有った。

数年前にひさしぶりに高知の田舎へ帰ったとき、
似たような感覚があって、涙が流れて、
それはきっと周りの自然環境のせいだろう、と思っていたのに、

このとくに自然のない戸塚でも、
似た感覚があるものだから、

あれ、おかしいな、意外と、、
とくに自然とか無くてもいいのかな、、うーん、、?

とか思いながら歩いた。

遊歩道で、帰り道に、買い食いのおにぎりを落としたことや、
マンションの通路でラントレしたこと、
まちがって隣りの家へ帰ったこと、なんかを思い出した。

あんまり長居しても不審者なので、
そこそこに切り上げて、
またバイクにまたがって帰った。

帰り道におなかが減ったので、
桜木町の立ち食い蕎麦屋に寄った。

奮発して、
イカ天そば+かきあげ、を頼んだら、
おばちゃんが間違えて、
イカ天そば+鳥肉、を出して来た。

ちがうよ、かきあげだよ、と言ったら、
あっ、、食べれます? と言うので、
食べれます。 と言って、

イカ天そば+鳥肉+かきあげ、になった。

そばを食べ終わって、バイクにまたがって帰った。
途中で給油した。

・・・

戸塚のマンションで、
僕が間違って帰宅したことのあるお隣さんは、Iさんと言いました。

もう二十年近くも前のこと、きっと引越してるだろう、と思いつつ、
なんとなく部屋の前まで行って表札を見たら、
まだ、Iさんの表札が出ていました。

向かいの僕の家だった部屋の表札を見ると、
こちらも、「I」となっていました。

ああ、なるほど。と、
微笑みました。



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by toshiokake2 | 2017-12-24 11:14 | Notes