カテゴリ:Notes( 35 )


ちかごろよく 仏教的なことを考えていて
気づきを得て心がしずかになる時も増えています
疲労がたまり混迷を深めている時も増えています

思考を消して
知覚を残すことが
ブッダの仏教の悟りの手法だとしたら

考えてばかりいると 思考に偏重するので
混迷を深めるのは当然のようにも 思えます

マッサージ

マッサージを学んでいて混迷が深まることはない
マッサージは思考よりも体に意識のウェイトがあるからでしょうか
考えるタイプの疲労はない

考える時間より
マッサージを学ぶ時間を増やした方が良さそうですが

こういう性分です
考えるクセがあります

畑に行って土を触ると さわやかな気持ちになる
すごく疲れていても 気付くと疲れが消えていることがある
畑を降りて街に戻ると そのさわやかさは消えて行く

あれはなんなんだろう

あ、また考えてる(苦笑)



[PR]
by toshiokake2 | 2018-04-05 07:10 | Notes

潮田公園


潮田公園で昼食をとった。
おにぎり二つとシャケ。家から持って来たもの。

まだ11時台だったこともあって、
学童だろうか?小学生ぐらいの子供達たくさんと、大人が少し、遊んでいた。

ゾンビと人間に分かれて、人間が逃げる、
人間はゾンビに触られるとゾンビになるが、ワクチンを打ってもらうと人間に戻れる、
というユニークな遊びで、鬼ごっこやドロケイの亜種のような遊びだった。

見ているとワイワイキャーキャー楽しい。

他力本願のことを考えていた。

他力に委ねられたこの世界、
自分も他力で動いている、
自分も他人も、他力で動かされている、

自分も他人である。
自分も他人も一緒である。

そう思った。

目の前で子供が跳ねていた。

跳ねている子供が僕で、
それを見ている僕が、跳ねている子供だ。

そう見れた。

すこし涙が流れた。


しかして、


メシを食って、
バイクにまたがって、運転していると、
どうもそういう安らかな気持ちになれない。

これはなんだろ、
どうしたもんだろ、

今度はこの胃を自分として、
自分を他人としてみるか、、とすると、少しうまくいった。


・・・


ちかごろ幾度か、
『体験』のころのように、
自分と世界の分別の消えた静寂に身をゆだねてみよう、とすることがあった。

そのころのようにうまく行くわけではないけど、
樹々や風や地面とは、同一化したような感覚をつくることが、少しできた。

人とはむずかしかった。
車ともむずかしかった。

人とできたのは、今日がはじめてだったかもしれない。

親鸞にふれていることが、
関係しているのかもしれない。


南無阿弥陀仏、の意味はいまだに捉えられない。
けれども、

南無阿弥陀仏と唱えていると、
思考は消えて行く。

無意識、
知覚、
思考、

このうちの、
思考、を消して、
知覚、を残すのが、悟りの方法だと書いてあるものがあった。

そうだとすると、

南無阿弥陀仏と、ただ唱えよ、という親鸞の教えは、

単純で阿呆臭いようでありながら、
実は科学的で実践的な手法かもな、

と思ったりもします。



・・・


仏教・思想の解釈については、僕は今はそう捉えている、という程度のものとしてご理解ください。




[PR]
by toshiokake2 | 2018-04-03 19:42 | Notes

ただの日記


今日あったこと、

うんこ、
潮田公園、
食事、
南無阿弥陀仏、
帰宅、
昼寝、
あっかんべェ一休、
宅急便、
芽、、

・・・

「あっかんべェ一休」(坂口尚・著)というマンガをここ数日読んでいます。これは僕の「悟りのような体験」に似た体験が描写されている数少ないマンガで、十数年前に読んだけど、今回また買って読んでいます。いまあらためて読むと、また発見があって、、

今回は、下記の言葉、

私には
常なるものが
無いようにも

また
常なるものが
有るようにも
思えます……

という言葉を発見しました。
e0297318_17483713.jpg
最初に読んだころは何気なく読み進めてしまったのですが、
これは仏教の基本である「無常」についての言葉で、ここで一休は、

「無常」をまず肯定し、そしてなんと、
「無常」を否定もしている(ようにも見える)、という、

仏教の基本「無常」を根底からゆるがす(ようにも見える)発言なわけで、
仏教を少々かじってみた今読むと、すごいなぁ、、となるわけです。(※1)

目を覚まされたような思いがしました。


そうなんですよね。

仏教を学んだからと言って、それを鵜呑みにしなくてはいけない訳ではないんですよね。仏教は世界の一つの見方であって、世界は仏教以前から存在しているわけですから、、仏教を学び、それを咀嚼して、自らの世界の見方を作って行くことが、、それをブッダも良しとするんじゃないかな、、なんて、かってに思ってしまいました。


さて。

ちかごろはこんなマジメな仏教くさいことばっか考えてるワケなんですけどね。

そんなワタクシ、
けさ水道のお仕事に行きますと、
事務所に入る前に、どうもウンコがしたくなったんですね。

水道のお仕事中にウンコ、となりますと、
これはもう、

現場仕事を中断して、徒歩でバイクのとこまで戻って、ウンコをガマンしながらバイクにまたがり全速力で移動、その途中、「いま事故ったら確実にウンコもらす、悲惨な事故現場になる、それだけは絶対にイヤだーー!」と思いながら、必死でバイクで駆けて、コンビニへ突入、用を足してまた戻って、、

と、
たいへんなタイムロスになるワケですね。

だもんですから、
今朝のように、出勤直前に便意、となりますと、
これはもう、絶対確実に、用を足してから出勤したいワケなんですね。

ですから、
事務所の一階のローソンに入ったんですよね。ローソンのトイレに。

ぷぅ。

オナラは出るけど便は出ない。
うーん。。

15分粘りました。
出ません。

ウンコは出ないのにオナカは痛い。
便秘ですね、便秘。

困ったけど仕方ないので、事務所に出勤しました。
そこで出発前作業などしていると、ほどよく便意が育ちましたので、
事務所のトイレで事無きを得たわけですが、、

・・なんかこう、ウンコしてるときって、すごい生きてるカンジしません?

自分が自分にかえって来てるというか、、
自分のなかにしっかり自分がいるというか、、


一方で、

『悟りのような体験』のあとには、
自分のなかに自我がうすくなり、世界は自分、自分は世界、のような感覚になります。そして、自分は、「自分という人間として」いるのだけど、「世界として」自分と世界をおだやかに見つめているような感覚になります。(※2)

「自分」のなかに、「自分」があんまりいないんですよね。

で、わりとちかごろは、
そういう状態に近づけようとしてるんですけど、

でも、ウンコしてるときは、

強烈に、

「自分」のなかに、「自分」がいるかんじ、しますね。

とくに便秘のときは。


むかしの、
悟りを得た人は、
ウンコのときも涅槃にいたのかな〜、
どうなのかな〜、

なんて思っちゃいました。



長くなったので、いったん終わりますね。



・・・



注釈
(※1)仏教についてまだカジった程度なので、、解釈が間違っていたらすいません。
(※2)語弊有ると思いますが、、簡単に書かせていただきました。あと「悟り」問題はデリケートなので、、ご気分害する方いらしたらスイマセン。


・・・


追記
読み返してみると、、
一休(著者・坂口尚)は無常を否定しているのではなく、輪廻(現象の継起)のことを「常なるものが有るようにも思えます」と表現しているのかな、、?



[PR]
by toshiokake2 | 2018-04-03 18:42 | Notes

線 雑想メモ


雑想メモ


アタマで考えるときは、
思考は「線」の上にある。

AだからB、BだからC、CだからDだから、、、という風に。

でもやっぱり、
AだからPで、PだからQかな、、? というときも、

やはりそちらはそちらで、そちらの「線」の上にある。


ジッサイの経験、
たとえば、

朝起きる、煙草を吸う、雨を見る、などは、

その瞬間には、それ単独で経験する。

「線」の上にはない。


あとから記憶になると、

朝起きてから、煙草を吸ってから、雨が降っていたのを見た、と、

「線」の上にあったように見えるが、

経験している瞬間は、「線」の上には見ていない。


まえに、

ふいに、

脳内にたくさんの映像がよぎり、
至福に包まれたことがある、と書いた。

あれは何だったんだろう?

と、よくかんがえるけれど、

15年たったいまでも、答えにはたどりつかない。


似た経験をした人も、
いくらか居るようだ。

だけど、だれも、
それを明確に語り、伝えられる人はいない。


これはそもそも、
それが言語思考の限界、

アタマで考える「線」の思考、

その限界を、
超えてしまっているからではないだろうか。



量子論の多世界解釈、

というデイヴィッド・ドイッチュの解釈があって、

彼の解釈によれば、
世界はいまこの瞬間にも複数に枝分かれして行っている。

この、
SFのような解釈を否定できた人はいまだ無く、

また、
量子の世界で起こっていることの意味を説明できた人もいない。



曼荼羅、
が、ふとあたまに浮かんだ。

世界は1つの「線」の上には無く、
放射状に広がり枝分かれして行く、「複数の線」の上に在るのかもしれない。
私が見ているのは、その「複数の線」たちのうちの1つかもしれない。

曼荼羅、
は、その表現だったんだろうか。


そういえばGOMAさんも、やたら曼荼羅を描いていたなあ・・


・・・


いささか、
論理的な整合性に欠ける文章ですいません。
(そもそも、論理的整合性を求めるのが間違っているのかもしれません)

また、
拙い部分もいくらか、
言語を思考に用いるものに限定していたり、
曼荼羅の一般的解釈を無視していたりすること、
ご容赦いただけるとさいわいです。


・・・


今日はマッサージの練習に、
自分のふくらはぎを揉んだりしていて、

そうすると血流がよくなって、
急にアタマが回りだして、

こんなことを考えたり、
そういうことが、ちかごろは、時々あります。




[PR]
by toshiokake2 | 2018-03-05 23:14 | Notes

きのう


きのう象の鼻テラスで佐立さんと王舟さんともう一人のライブに行った。
佐立さんよかった、王舟さんも安定の良さだった。
最後に3人でカバーをやった、テニスコーツの光輪のカバー。

「ああもうすべてはきっと なんの価値もないんだよ」

この歌詞が植野さん(テニスコーツ)のバージョン(原曲)だと哀しく響いていたが、きのうは、アンコール3人でやる、という祝祭的気分が演奏者に影響したのか、

すべては なんの価値もない

という言葉が前向きに、すこし明るくひびいた。

すべてになんの価値もないということは、なににも甲乙がなく、そうしたことをなにも、考えなくてよいということです。

雪の、広くつづいてゆく雪原のイメージが見えた。

しずかで無情で平等な世界。
なにもないから、解放されていて、自由な世界。

・・・

鈴木大拙の、日本的霊性、という本を、人にすすめられて読んでいます。
浄土真宗や親鸞にかかわる記述が多い。

親鸞の他力本願、絶対他力、とは、

まず、

「自力の無力さ」を知ること、
そしてそこから、自分が「生かされている存在」であることを知ること、

そこが肝ではなかろうかと思います。

自力を手放し、

解放されること、無力であるがゆえに自由だと知ること、

そして、

絶対他力に身をゆだねているがゆえの、安心感とともにあること、


自分は、
いまは、
そういうふうにとらえています。


他力、についての解釈は、まだ、
浄土真宗がどうとらえているのか、僕の経験と照らしあわせたイメージと合致するのか、どうか、まだわかりませんし、まだまだ知り始めの段階ではあるのですが、

鈴木大拙の言っていることは、
わりと自分に馴染むところも多いです。

・・・

MELODY KOGA さんの FLOWERS というアルバムの紹介を、ふと今日も目にしました。同じコード4つしか使ってない。ずっと同じコード進行に、それぞれの言葉が乗っている。

お寺の鐘のよう。

お寺の鐘や、お経のように、ずっとおなじリズム。

仏教のことを考えている時期に、MELODY KOGAさんの曲が合うように感じるのは、そういうところがあるのかもな、と思ったりしました。

・・・

仏教のことを考える時期に入っているようです。

15年前に、

ある経験をきっかけに、

仏道に入るか、
ヴィレッジヴァンガードで働くか、

の2択で迷った時期がありました。

当時は、
若いときしかできないこと、
ヴィレッジヴァンガードを優先しました。

少し前までやっていたお店も、
ヴィレッジヴァンガードの延長線上にあるもので、
まあ、ゆったら、15年ヴィレッジヴァンガードやっていたようなもんです。


それにも、ひと一区切りついて、

この時期にまた、
仏教的な出会いがありました。


お坊さんになってほしい、と、
なかば冗談ではありますが、ちかごろ言っていただいたこともあります。

よほどお坊さん的な性質を、自分のなかに持っていますが、

その一方で、

またちがう性質もあります。


ずっと、お坊さんだけをやれる性質では、ないような気がします。


それでもやはり興味が、とても興味があるので、
こうして、本を読んだりしています。



どうなるんでしょうね?


すこしずつ歩きながら、だんだんたしかめていくのみです。

だんだんたしかめられていく、かな?





[PR]
by toshiokake2 | 2018-02-04 21:51 | Notes

ノスタルジー


朝っぱらの六時から目が覚めて江ノ島まで原チャリで行って来た。
まだ寒さで膝が笑っている。
片道五十分の道程。

二十歳の頃、戸塚に住んでいた時は、
たまにこうして深夜や早朝に江ノ島へ行ったりしていた。
(どうも僕にはそういう習性があるようです)

江ノ島の堤防の上で煙草を吸って、
いくらか歩いて、
またバイクにまたがって鎌倉方面へ海沿いを走る。

少し走ると、
一年か二年前に一泊したゲストハウスの近くを通る。
確かあれはチャンピオンズリーグの決勝の日だったから、2016年の春かな。
僕もその頃は横浜でゲストハウスーーと言うよりは民泊ーーをやっていて、AirBNBという仲介サイトを使っていた。気狂いマリー、という史上もっとも問題児なお客さんが居て、彼女がサイトにクレームを報告したから、それについて、サイト宛てに、「それは彼女の捏造で、僕は出来るだけのことはしましたが、彼女との関係は残念な結果になりました」という旨の長文メールを送ったら、「あなたは悪くありません。今回のことでは大変でしたね。五千円相当のクーポン券を差し上げますので、どうか羽を伸ばして来て下さい。」と信じられないほど親切な返事が来た。特に旅の予定もなかったが、せっかくなので鎌倉のゲストハウスを予約して一泊した。

そんなことを思い出しながら、
海辺にバイクを止めて砂浜を少し歩いた。

それから何となく帰路に向かう。
急ぐ旅ではないので、グーグルマップは見ない。
知らない町を、勘を頼りに進むのは楽しい。(ただ、寒い。)

帰り道に、戸塚へ向かう標識が有ったので、それに従う。
戸塚は、僕が十三歳から二十一歳まで過ごした場所だ。

戸塚の、かつて住んでいたマンションへ行ってみた。
もう身寄りなど居ないし、
十八年も前のことだし、
殺風景で、風情のあるようなマンションではないのだけど、

意外と、
その中二階の遊歩道を歩いていると、じんわりと来るものが有った。

数年前にひさしぶりに高知の田舎へ帰ったとき、
似たような感覚があって、涙が流れて、
それはきっと周りの自然環境のせいだろう、と思っていたのに、

このとくに自然のない戸塚でも、
似た感覚があるものだから、

あれ、おかしいな、意外と、、
とくに自然とか無くてもいいのかな、、うーん、、?

とか思いながら歩いた。

遊歩道で、帰り道に、買い食いのおにぎりを落としたことや、
マンションの通路でラントレしたこと、
まちがって隣りの家へ帰ったこと、なんかを思い出した。

あんまり長居しても不審者なので、
そこそこに切り上げて、
またバイクにまたがって帰った。

帰り道におなかが減ったので、
桜木町の立ち食い蕎麦屋に寄った。

奮発して、
イカ天そば+かきあげ、を頼んだら、
おばちゃんが間違えて、
イカ天そば+鳥肉、を出して来た。

ちがうよ、かきあげだよ、と言ったら、
あっ、、食べれます? と言うので、
食べれます。 と言って、

イカ天そば+鳥肉+かきあげ、になった。

そばを食べ終わって、バイクにまたがって帰った。
途中で給油した。

・・・

戸塚のマンションで、
僕が間違って帰宅したことのあるお隣さんは、Iさんと言いました。

もう二十年近くも前のこと、きっと引越してるだろう、と思いつつ、
なんとなく部屋の前まで行って表札を見たら、
まだ、Iさんの表札が出ていました。

向かいの僕の家だった部屋の表札を見ると、
こちらも、「I」となっていました。

ああ、なるほど。と、
微笑みました。



[PR]
by toshiokake2 | 2017-12-24 11:14 | Notes

高知に旅行に、と


高知に五日間旅行に行っていた。
旅行に行く前の日に新宿でにたないけんのジョズエのライブを見に行った。
対バンのブルボンズの人が「もっと大きなものと戦え」と言っていた。
なぜか相撲の嘉風関のことも思い出した。

ジョズエのライブは良かったからCDを買った。
しゃべるなポーラ、というジョズエで最初のアルバムで、
帰ってパソコンに入れてから携帯へ入れて旅へ持って行った。

高知で毎日ジョズエを聞きながら過ごした。
高知ではいつもは田んぼのあぜ道を歩いたり海辺を散歩するのが主なので音楽は聞かないが、今回は鈴虫の声を聞く合間にもヘッドホンでジョズエを聞きながら歩いた。

こんなにも前を向かせる音は無かった。
ライブとCDはいくらか音のバランスが違うが、それぞれに良さが有った。
何より、三十歳も過ぎた男がバンドを解散してまたバンドを組んで、そしてまた前よりもいい音を出しているなんて、と思った。四十間近の自分の人生と、バンドマンとして三十を越えて解散してそして、という部分が重なった。

五日間のんびりしたり、ギターを弾いたりしながら過ごした。
ジョズエに触発されて土曜日に石井さんとスタジオに入ることにしたので、曲を仕上げたかった。できかけの曲が有った。なんだかんだ段々煮詰まって来て、帰り間際の空港で最初に出来た時の歌詞を見たら、なんだ、こっちの方がいいじゃん、となった。

ブルボンズの人が言っていた、「もっと大きなものと戦え」についてずっと考えていた。最初は、ああそうか、そうだな、細かい事にばかり気を取られ過ぎていたな、ツイッターで流れて来るちょっとイラつくことなんて小さい、思えば原発も総理も小さい、もっと大きなものって何だろう、憎悪とか恐怖とか惑いとか、そしたら対抗は友愛とか勇気とか覚悟だろうか。優しさ?なんて思いながら、ああそうだな!と思ったり、うーん、でもなにか、、と思いながら時々考えていた。

旅行の終盤コン詰めて曲作りをしていた(オマケに最初の方が良かった)ために最終日の今日は結構疲れていた。横浜に帰宅していつものスーパー銭湯に行った。フイに思い出した。ヴィレッジヴァンガードで店長をやってた頃、上司が店にやって来て、「君のテーマは何?」と聞かれて、答えた言葉を。それも咄嗟に出た言葉だった。生命の肯定だとか、自然への畏敬だとか、世界一面白い店を作るだとか、アタマで考えた後に作った言葉はその頃も今も持っているけど、その時は反射的に出て来た。後で、随分固い言葉だなあ、と思ってその後はそんなに使わなかった。なんでか風呂に入っていたらその言葉がまたフイに出て来た。考えてみればきっと、生命の肯定だとか自然への畏敬なんてのは、この言葉より小さいんだろう。風呂から帰って、「節約」と書いた紙を壁から剥がして、その言葉を書いて貼った。

e0297318_17051678.jpg


[PR]
by toshiokake2 | 2017-09-28 17:05 | Notes

おはようございます



昨日は今月最後の水道の仕事に行き、
午後1時半には現場での仕事を終えバイクで事務所に向かっていたのですが、
帰り道に事故に遭ってしまいました。

(と言っても、大事ないのでご心配なさらないでください)

こちらは原付バイクで車道左寄りを直進、
あいては並走する車で左折、
巻込み事故ですね。

ウィンカーに気付いて、あっ、曲がる、曲がった、あー、間に合わない、あーーー、

ボン、ずざーーーー。

という感じで、

接触場所から5メートルほど前へ滑って右に横転しました。

先方は保険会社の方で、
警察、僕の会社への連絡等、スムーズに事が運びました。

ただ先方は、
こちらの体を心配してくれたり、丁寧な物腰ではあるのですが、
あとで思い返すと、

ああ、一度も謝らなかったなあ・・。
ああ、大人のやり方だなあ・・。

と思ったりもしました。


その後、病院に行って、
MRIで脳を見てもらって、異常ありませんでした。
すり傷の処置を少々。


昨日の時点では、
今日は宅急便の仕事に行く気マンマンだったのですが、
(人間は異常があると普段の行動をしたがるもの・・というのを今まで見て来たのですが、自分もそうですね)

朝起きてみると首筋、背中、足などすこし痛むので、
大事を取って仕事はお休み、また病院に行くことにしました。
(昨日の病院は、脳は見れるけれど、整形外科はなかったのです)

宅急便の仕事最終日に、
バイクで事故って休みます、なんて、ウソ臭いなぁ、気まずいなぁー、
と思いつつ、先ほど連絡しておきました。


・・・


昨夜、病院を出ると、急な土砂降りの雨でした。
雨宿りついでに、近くの「アナンダ」というスープカレー屋さんに入りました。

「アナンダ」は10年ほど前から横浜駅東口にあるスープカレー屋さんで、
ときどき行きます。

スープカレーにそんなに興味はなかったのですが、
ここのお店の味と、
お店、店主さんの雰囲気が好きです。


「アナンダ」には、
「アナンダ」になる前は、フランス料理のお店が入っていました。

たしか、「イル・エノトリア」という名前で、
元妻と、初めての彼女の誕生日にデートしたお店。




[PR]
by toshiokake2 | 2017-09-23 08:11 | Notes

散歩



いま この時も きみは

新しい 世界を 見ている


いま この時も きみは

新しい 笑顔を 見せてる



・・・


娘のこと、
散歩のこと、
記号(言語)情報のこと、

twitterのこと、、

・・・


水道の仕事を一時頃に終え、同僚のS君とメシに行って風呂に行く。
子安の鷲の湯、ここはラジウム泉の黒いお湯と水風呂がとてもいい。体に合っているようでいつもリフレッシュする。今日は薬を飲んでも治らない夏風邪を、無理矢理デトックスするために行って来た。

・・・

風呂から帰って自宅で5時半ごろまで寝る。

寝て起きるとずいぶん体調が快調になっている。HPゼロだったのが60%ぐらいまで。風邪だし大人しくしてたい所だが、部屋にいても倦んでしまうので散歩に出ることにする。近くのお気に入りの堤防を目的地にしようかと思うが、すぐ振り払って、目的なく出かけることにする。

・・・

はじめてのところを、はじめて歩くように歩きたい。見慣れた近所の散歩道でも、つぎに何が起るかわからない、はじめての瞬間を歩いている気分で、自由な気持ちで歩く。するといつもと違う所で曲がろうとする。そのまま曲がると、知らない景色が見える。きっと通ったことはある道、けれど気付かなかった塀の隙間、草の生え方、苔のむし方、そんなものが見える。

しばらく行くとまた、今度は本当に見たことのない家が見える。平屋だけど天体観測所のような半球形のドームに、ニョキと玄関部分などせり出している作り。材質はおそらく木造で、屋根は緑、壁はライトベージュの、北海道とかにありそうな家を、すこしこっちサイズ&カラーリングにしたような家。壁沿いの空きスペースには薪、薪ですよマキ!が、たくさん積んである。所さんなんかが好きそうな家だ。こぢんまりしているながらも、この都会で省スペースで遊び心のある家を作ろうとしたハートを感じる。車は小さな軽。敷地表には夕顔かなにかのツタがカーテンを作っていた。

もう何百回も自転車で近くを通ってる場所。だけども気付かなかった。

目的地を決めずに歩くことは、ずいぶん久しぶりです。

・・・

・・・


もともとこの横浜に戻って来たとき、5〜6年前は、
よくこうして目的もなく歩いていた。

目的のない散歩には発見があった。


もうしばらく、そういうこともしなくなった。

散歩に出るにしても、
臨港パークや、川辺の堤防や、目的地を決めて出かけるようになっていた。

目的地が決まってないと安心して出られないような、そんな気分になっていた。


まわりの人を見ていても、
なんだかそうして、ムダな段取りを決めたがり過ぎる人というのはいる。
そういうのを見て知っているのに、なんだか自分もそのようになる。

なにかに焦っているが、焦ってなにかを終わらせても、
あまった時間でやることなど、ほんとうは無いのだ。

それなのに、ああいう風になってしまう。あれはいったいなんだろう?


・・・


お店をやめたことで、こういう時間もとれるようになったのかと思う。

お店をやっていても、こういう時間がとれないなら、意味はない。


なんとなく心のリズムが、

またお店をはじめるまえ、はじめたころのように戻って来ているとしたら、

うれしい。


・・・


自由な発想をもっていたい。

毎日を、少しずつちがう日々、はじめて見る日のようにすごせたら良いと思う。

つぎに何が起るかわからない、あした死ぬかもしれない、

そうした未知へのワクワクとドキドキに視野・感覚が開く。心は自由になる。


生き物とはもともとそうして生きているものでしょうか?


・・・
・・・


長くなったのでtwitterと記号情報のことは端折ります。

冒頭の詞は、、

ああそう、


風呂でtwitterの話をSくんにしてて、

僕は夜の帰宅後にtwitterを見てしまうクセがあるのだけど、

「なにか」を探してグリグリ、ぐりぐり、スクロール、、、

「なにか」あるような気がして、スクロール、

でも、

「なにか」なんて無いんだよね。

それでもなんだか見てしまって、、

なんだか最終的にはさみしくなる、それはまるで、自分を見ていない人ごみの中を歩いたような。。


これはほんとにバカらしい、

じぶんでわざわざtwitter見て、そんでわざわざ、さみしがってんだから、、

(さみしいというか、、)

(これは記号情報と現実の齟齬による混乱とも思うのですが、、さておき、)

自分で自分を奴隷にしてるというか、、

自分で自分を文字の奴隷にしてるというか、、


アホだ。


アホがいる一方で、


アホの娘を見ていると、これはほんとうに素敵だ。


子供はすべてをまるではじめて見るように見る。

はじめてのものを見て、はじめて考えて、じゃあこうしよう、とする。

駐車場のフェンスも、娘には、壁づたいに歩くゲームだったりする。

塀はアスレチック。

こんなふうに世界が見れていれば、楽しいだろうなあと思う。


はじめてのものを見て、はじめての笑顔を見せる。

娘から学ぶことは多いです。


父がかってに言葉に埋没して苦悩している時も、

娘はどこかで、新しいものを見て、
笑ったり、考えたり、
しているだろうなあ、

と思ってたら、


冒頭の詞がでてきました。



[PR]
by toshiokake2 | 2017-08-03 19:18 | Notes

前日の夜は


前日の夜は熱い風呂に入り相撲の録画を見ていたら夜7時半に寝てしまった。
朝4時半に全裸で目を覚まして朝立ちがあまりに立派。
普段そう思わないのは全裸で寝ないからか、と思う。

早起きしたので暑くならないうちに畑に行くことにする。
30分自転車を漕いで鶴ヶ峰の畑に到着。
水をやって煙草を吸って帰る。畑滞在15分。
15分のために往復1時間、、と思うが、なんか行く方が気持ちが安定する。

行きの道すがら考えていて、
今日は元妻と娘は根岸のマンモスプールに行っていないし、どうしよう、
そうだ、飯能の野口種苗に行こう、と思う。

野口種苗、野口のタネ、は、
手塚治虫の「火の鳥」の初代編集だった人がやっている種苗店で、
数年前にBIGISSUEを読んで知っていたが、
ついぞ行く機会がなかった。

なんとなく今朝はそのことを思い出し、行くことにした。

自分がやっている畑はあまりに小さく、意味があるのかな?と自問自答してしまうこと多々だが、そうした小さいことでも始めたから、またそういう方向に頭が働くようになったのかな、と思い、意味はあるよ、と言い聞かせるように思う。

横浜駅から電車とバスで2時間超、埼玉・飯能の野口種苗に着く。
今日は午後に東京で講演があるようだから、野口さん居ないかな?と思っていたが、開店の10時にはいらした。話しかけたりはせず、軽い挨拶だけする。すぐに野口さんは「では、行ってきます。」と出かける。会えてラッキーだったな。かつて会ったヴィレッジヴァンガードの創業社長のような人だった。ヴィレッジの社長に初めて会ったときは、「まちがって会社が大きくなってしまった人」と感じた。野口さんも、いわゆる尊大な感じとは無縁の人だった。好きになれるかもしれない、と思った。種を4種類と、野口さんの本を買った。

帰りに、野口さんの講演や、小岩で友達が企画してるライブに寄ろうかと思ったけど、疲れたのか偏頭痛が出たのでまっすぐ横浜に帰る。帰って古代麦のパスタを茹でて、、(なんかこの書き方オーガニック偏重の人みたいですね)、、茹でて、ペペロンチーノにする。ウマい。しかし前はもっとモソモソしてたような、、それが好きだったんだけど、、単に茹で時間が短かったんだろうか。当時のお客さんごめん(まあ俺はウマいと思ってたからいいのか?)。

自宅で本を読んだりして過ごしていたら夕方になった。西横浜で友達のハードコアバンド、Sweety、が出るイベントに行った。西横浜のエルプエンテ、というところはとても小さいが、ハードコアの聖地のようで、海外からもアーティストがよく来る。今夜はFallSilentというアメリカのバンドが来ていた。

ライブを見て誰かと飲みに行きたい気分になったが、友達は彼らの打ち上げとかあるだろうし、動き出すにはまだ時間がかかりそうだから帰った。帰りに元家庭に寄りたいと思うが22時オーバーなので寄れない。淋しくスーパーでアテなど買って帰る。飲む。

家庭風なものもあり、一人の住まいもあり、一人で自由になれる時間は多々あり、恵まれていると言えば恵まれている環境なのだが、「一人になれる」ということと、「一人にならなくてはいけない」というのは大分違う。自由選択と強制の違い。

まあ今まで随分ラッキーな人生を、(たぶん端から言わせれば今もラッキーな人生を)送って来た分、こういう淋しい時間もあっていいか。ふふ。と、ベランダのベンチに座って煙草を吸いながら少し苦笑する。

e0297318_23503624.jpg

[PR]
by toshiokake2 | 2017-07-23 23:55 | Notes