人気ブログランキング | 話題のタグを見る

仏教思想のゼロポイント/ティール組織



ブッダが衆生を救おうという意思を持たない、善悪の区別を持たないとしたら、なぜブッダは衆生を救っているように見える行為をしたのでしょう?

これに対する答えとして、書籍「仏教思想のゼロポイント」はこう言っています。5年前の私のblogから再引用します。

緑:同書より引用して私のblogに記載した部分紫:5年前の私の記述

現代日本では日常用語として使われるこの「慈悲」という言葉は、同じく日常用語である「優しさ」と、しばしば混同して理解されがちである。(中略)ブッダは「優しい」から衆生に説法を説いたのだということになるわけだが、私の見方では、これは必ずしも正しくない。(p.155)

 では、意味の判断も無意味の判断も失効したところから、衆生への利他のはたらきかけを行おうとする人々の心象はいかなるものであるのか。敢えて言語によって簡潔に表現するならば、それは「遊び」と言うのが適切であると思う。(p.173)

覚者にとって、意味も無意味もない。利他功をするもしないも、本質的に純粋な意味での「遊び」なのだと、著者は言っている。また、ブッダのように説法対象を限定するのも、大乗的に一切衆生を対象とするのも、どちらも「遊び」であり、どちらが正しくどちらかが間違っている、ということもない。


この「純粋な意味での遊び」という言葉が、5年前の私には、

わかるような気もするし、でもわかってないような気もするな、という感覚がありました。


・・・


5年を経ていま私は、書籍「ティール組織」を読んでいます。

ティール組織の大切な要素として、「全体性(ホールネス)」がよくとりあげられています。

仕事をする自分と、ふだんの自分との断絶をなくし、全体性をとりもどすこと。

世界や自然の一部である自分をとりもどすこと。

「全体性(ホールネス)」とはそんなような意味で使われているようです。

これが自分にはしっくりきました。


私は世界が自分であるような感覚を得たことがあります。

それは私が24歳の時で、今よりも21年も前です。

その時はそれまで経験したことのないような快感と多幸感が全身を駆け巡り、1週間ほどでだんだんと消えていきました。

それから私はその多幸感を求めて、再現する方法を探すことになるのですが、その方法はついぞ得られず、今に至ります。


この「ティール組織」という本を読んでいると、ずいぶん魂が開きます。

24歳当時とはいきませんが、そのときの感覚を思い起こさせてくれます。

さきほど夜道を散歩していて、ふと頭上の木を見上げたとき、「ああ、こんなだったかもしれないなあ(あの時は)」という感覚がありました。

その時ほどの強烈な感覚ではありませんが、世界と自分の区別がすくなくなったような感覚を、ずいぶん久しぶりに感じました。


そしてこの「ふと頭上の木を見上げる」という行為、これが「純粋な意味での遊び」なのではないかな、とおもいました。

私は「ふと頭上の木を見上げる」ときに、「頭上の木を見上げよう」とは思っていません。

それなのに「ふと」見上げています。

これとおなじことが、ブッダの「衆生を救う(ように見える)行為」、「純粋な意味での遊び」なのではないかな、とおもいました。


なにもかんがえていないのです。

なにもかんがえていないけど、ふと行動している。それは私たちが歩くときに、左足と右足を交互に出そうと、意識しないのとおなじように。

この状態のときに、良い行動(に見える行動)が生まれやすくなるのではないか、悪い行動(に見える行動)が生まれにくくなるのではないか、とおもいました。


つまり、

A)意識的に起動する善行
B)意識的に起動する悪行
C)無意識に起動する善行(に見える行動)
D)無意識に起動する悪行(に見える行動)

のうち、

まず、ABが消失し、
そして、CDについては、無意識ではDは発生しにくく、Cが発生しやすいのではないかと想像します。(動物とおなじ)


全体性(ホールネス)の状態になると、そうした状態になるので、、

あれ、状態という言葉をくりかえしてしまった。なんだっけ。


書籍「ティール組織」を読んでいると、ずいぶん魂が開きます。

この人が感じている世界が、この本から伝わってくるのだと思います。そして私の体験した世界を呼び起こしています。


・・・


「ティール組織」はビジネス書です。

ビジネスの世界と、私の世界が融合することが、私にとってはうれしいのかもしれません。





by toshiokake2 | 2023-11-10 01:02 | 仏教思想のゼロポイント
<< A+B+C+D = A+B+C+D 喫茶へそまがりとは何だったんだ... >>