緑字は引用
黒字は僕の記述 ・・・ 「悟り」あるいは「悟りの前提」について 禅定というのは特定の対象に意識を集中(サマーディ)する実践であり、したがって、様々な概念を組み合わせることで進行する思考の作用は、注意力の散乱をもたらすがゆえに排除される。そして、その集中力によってもたらされる如実知見の認知においては、概念操作が成立する前提であるところの、分別の相が寂滅してしまっているのだから、そこで思考が成立する道理はないのだ。(p.138) つづけて著者は、 ゴータマ・ブッダの仏教における「悟り」は、 推論や思考の結果として徐々に到達される概念的分別知ではなくて、瞬時に起こる決定的な実存のあり方の転換、即ち、いわゆる「直覚知」である(p.139) とも述べている。 すると、残る問題はそのような無為の涅槃の覚知が実際に起こるのかどうかということになるだろうが、これについてはテーラワーダの瞑想センターで、上部座圏のみならず、世界中から集まった実践者たちが、いま・この時も「現に証し」続けていることである。(p.156) 「涅槃の経験」の内実それ自体についても、描写を行っておくべきだろうが、これは涅槃が不生不滅の無為のものであり、言語の領域である分別の相を超えたものである以上、究極的には不可能事である。(p.157) ここまでの叙述では、分別の相の枠組みから眺めた限りでの涅槃の「性質」の描写を行い、それを経験することが引き起こす「結果」についても述べてきたが、その経験の内実それ自体については、これまで行ってきた以上の描写をすることはできない。結局のところ、ここが言語の権利と能力の限界である。(p.157) ウ・ジョーティカは涅槃の「性質」について次のように述べている。 (書中引用) 涅槃の性質は、精神的・物質的現象の性質とは全く反対です。このこともまた、重要です。ある人々は、涅槃と輪廻が同じであると言う。違いますよ。全くはっきり違います……。しかし、涅槃を理解するためには、あなたは輪廻を理解しなければなりません。輪廻とは、精神的と物質的のプロセスのことです。それが輪廻と呼ばれるのです。ある人が、一つの生から別の生へ移るという、物語のことではありません……。本当の輪廻とは、本当の廻り続けることというのは、この精神的と物質的のプロセスが、ずっと続いていくことを言うのです。それが輪廻と呼ばれるのです。その終わりが、涅槃。涅槃は輪廻と関係している、と言うことであれば、まだ可能です。涅槃は何らかの仕方で、精神的と物質的のプロセスに関係をもっている。しかし、涅槃はプロセスの中にはありません。それはただプロセスの外にあり、ただプロセスの縁にある。その限りにおいて、涅槃は輪廻と関係していると言うことは、可能です。 (以上、書中引用) ここで言われていることは、涅槃は「精神的と物質的のプロセス」である輪廻、即ち、生成消滅する現象の継起とは全く性質の異なるものであるということ。そして、涅槃は輪廻のプロセス(現象)を徹底的に観察することでもたらされる以上、その限りにおいて輪廻と「関係している」ということは言えるが、それ自体が輪廻のプロセスの中にあるというわけではない、ということである。これらは既に、本書のここまでの叙述でも確認してきたことだ。 では、涅槃の経験それ自体についてはどうか。ウ・ジョーティカはこう言う。 (書中引用) 涅槃とは一つの経験です。 その瞬間には、対象と観察が停止する。 その二つのものが停止するのです。 瞑想者には、全てが終焉したように感じられます。 これについて例を挙げることなんてできるでしょうか? この状態は、言語を超えたものです。それについて語ることはできません。それはまるで、重い荷物を運んでいて、それを下ろしたようなものです! あるいは、何かとても重いものを引っ張っていて、ロープがプツンと切れたようなもの! (以上、書中引用) 涅槃の原義は(煩悩の炎を)「消すこと」だとされるが、まさに火が消えるように、その時には対象と観察、即ち、継起する現象の認知が消失してしまう。現象の認知がないのに「経験」があるというのは理解の難しいことだし、「推論の領域を超えた」ことだ。だから、その「経験」の内実について、言葉で語ることは不可能である。ただ言えることは、それが起こった時には、煩悩の炎が実際に消えてしまうということだけだ。(p.158−160) 著者は続けてこう述べる。 涅槃についてもう一つだけ言っておくと、それはゴータマ・ブッダが「現に証せられるもの」であり「来て見よと示されるもの」であると語っている通り、日本も含めた世界各地に存在する瞑想センターに参じれば、誰でも「経験」を試みることのできるものである。文献や他人の証言によって、その「性質」だけを知ることに満足されない方は、ぜひ自ら、それを試みていただきたいと思う。(p.160) 「慈悲」と「優しさ」について 現代日本では日常用語として使われるこの「慈悲」という言葉は、同じく日常用語である「優しさ」と、しばしば混同して理解されがちである。(中略)ブッダは「優しい」から衆生に説法を説いたのだということになるわけだが、私の見方では、これは必ずしも正しくない。(p.155) その最も大きな違いとは、行為者の内面において、「慈悲」のほうは常に「捨(平静さ)」の態度が伴っているのに対して、「優しさ」にはそれが伴っていないことである。(中略)「優しさ」というのは、他者の喜怒哀楽を感じとって同調し、それに働きかけようとする心であるが、「捨」というのはそうした心のうごきを全て平等に観察して、それに左右されない平静さのことを言うからだ。(p.166) 仏教の実践者は、しばしば「本当の慈悲は悟ってからでないと出ませんよ」と口にするが、それは当然のことであって、我執と欲望によって織り上げられた「物語の世界」の中で、現実を如実知見しないまま盲目的に「利他」(だと感じられる)行為をするならば、それは単なる「優しさ」である。欲望の物語への執着を離れたところから、我執も他執もない平等なはたらきかけを行わなければ、それは仏教の「慈悲」にはならないのだ。(p.166) 「無意味」と「意味」 「無意味だ」と言うことが「意味」をもつのは、そのように規定された対象以外のどこかに、「有意味」なものが存在している場合である。かりに全てが「無意味」であるとするならば、「無意味だ」と言うことにすら、既に「意味」は存在していないはずだ。(p.171) つまり、「無意味だ」という判断をした時点で、それは「物語の世界」の文脈に回収されてしまっており、如実の風光からは、既に離れてしまっているということ。(p.172) ゴータマ・ブッダの語ったことは、「全ては無意味だ」ということではない。そうではなくて、彼が教えたのは、「無意味だ」と口にしてまで新たな「意味」を生成し続けずにはいられない、その衝動、その根源的な欲望を深く見つめ、それを滅尽させることである。(p.173) 「遊び」 では、意味の判断も無意味の判断も失効したところから、衆生への利他のはたらきかけを行おうとする人々の心象はいかなるものであるのか。敢えて言語によって簡潔に表現するならば、それは「遊び」と言うのが適切であると思う。(p.173) 意味も無意味もない現象が、生成消滅を続けながら、それでも形成され存在しているということは、それ自体として「奇跡的」なことである。(p.174) 様々な場所について、ゴータマ・ブッダがそれらを「楽しい」と讃えるシーンも記述されている。対象が自然美とはいえ、渇愛を滅尽した解脱者たちがそれを「楽しむ」というのはおかしなことのようであるが、実際のところは、これはとくに不思議なことでもない。対象への余計な執着の物語を離れた覚者や仏弟子たちは、その風光から現象の世界を反照することによって、存在するものがただ存在するということそれ自体を、純粋に「楽しむ」ことができるからである。(p.174) ゴータマ・ブッダの仏教は、「凡夫が生の内容だと思っているところのもの」を、少なくともいったんは否定するものであったが、「生」そのものを徹頭徹尾否定するものであったとは言い切れない、と私は書いた。その理由は単純で、「凡夫が生の内容だと思っているところのもの」を厭離し離貪して、ひとたび解脱に至った者は、もはや肯定も否定もしないからである。(p.175) 覚者にとって、意味も無意味もない。利他功をするもしないも、本質的に純粋な意味での「遊び」なのだと、著者は言っている。また、ブッダのように説法対象を限定するのも、大乗的に一切衆生を対象とするのも、どちらも「遊び」であり、どちらが正しくどちらかが間違っている、ということもない。 独覚 仏教では一般に独覚と称される人々の存在が認められている。これは仏弟子である声聞とは異なって、師なくして独自に覚者となった人であり、また悟後にゴータマ・ブッダのような慈悲の利他行を実践して広く衆生を救済することもなく、そのまま亡くなってしまう人である。(p.178) 智慧の覚悟と慈悲の実践 このように、智慧の覚悟と慈悲の実践は、矛盾するものでは決してないが、かといって、必ず併存していなければならないというものでもない。(p.180) (一部の)大乗仏教の、ブッダの教えと異なる展開 無為の寂滅境に住することよりも、「物語の世界」の中にある衆生にはたらきかけることを優先しようとすることは、伝えられてきたゴータマ・ブッダ自身の言行とはずれてくる。だから彼らは自ら新しい教典や論書を作成し、そこで何とか、自分たちの価値判断に、教理的な整合性をつけようとした。そこで行われたことが、例えば自己の目標を「成仏」として無限遠の未来に位置づけ、「菩薩」としての現在をそのための「過程の生」であると定義することで、「物語の世界」における今生での活動を正当化してしまうことであり、あるいは龍樹がそうしたように、「涅槃」と「世間」の区別を無効化してしまうことで、後者から前者への移行というゴータマ・ブッダの仏教の基本線自体を、いわば「宙吊り」にしてしまうことである。(p.192) 彼らがゴータマ・ブッダ自身の示した態度からは多かれ少なかれ逸脱・離反しながらも、それでも自らを「仏教徒」であると考えたのは、彼らが「現実性」へと関与する際の立脚地が、ゴータマ・ブッダの教えにしたがうことによって知ることを得た(と自己認識した)、「本来性」の風光にあったからだ。 「本来性」を知り、己の立脚地をそこに置くということに関してはゴータマ・ブッダと変わらなくても、その「現実性」との交渉の仕方に関しては、ゴータマ・ブッダとは異なる道を選んだ人たち。「大乗」とはそのような覚者たちによって担われた運動なのではないかと思われる。 大乗仏教に近い人にとっては、不愉快な記述かも知れません。 もしご気分を害されていたら、お詫びします。 ミャンマーとタイ ミャンマーとタイは、ともに上座部圏に属する国であり、多くの国民がテーラワーダ仏教徒であるが、それぞれの国で実践されている仏教の性質には、やはり微妙な差異がある。そして、中でも顕著な相違であると考えられるのが、その涅槃に対する把握の仕方だ。総じて言えば、ミャンマーの仏教徒たちにとって、涅槃とは本書で述べたような瞑想による無為の領域の覚知のことであり、タイの仏教徒たちにとって、涅槃とは瞑想時に限らず、行往坐臥の全てにおいて実現されている、人格の一定の状態を指すように思われる。(p.199) ・・・ 返却期限が来てしまったので、駆け足での引用になりました。 いくつか書きたいこともありましたが、だいぶつかれました。一旦終了です。
by toshiokake2
| 2018-03-29 13:16
| 仏教思想のゼロポイント/仏教/悟り
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