「仏教思想のゼロポイント」より 第三回

緑字は引用
黒字は僕の記述

・・・

実践について。

(前略)実践者が具体的にやらなければならないことは何だろうか。(p.124)

(中略)『スッタニパータ』に、「世界における諸々の煩悩の流れを堰き止めるものは気づきである。この煩悩の流れの防御を私は説く。その流れは智慧によって塞がれるであろう」と説かれていることが参考になる。つまり、自然のままに放っておけば対象への執着へと流れていく煩悩のはたらきを、まず止めるものは気づきであり、そしてその流れを塞ぐ、即ち根絶するのが、智慧であるということだ。(p.125)

 この「気づき」というのは、現状に気づいており、自覚的であることだと、基本的にはそのようにシンプルに考えておいて構わない。(p.125)

六根によって六境を感受した際、六境に対する貪欲があれば「私の内に(六境に対する)貪欲がある」と知り、それがなければ、「私の内に(六境に対する)貪欲がない」と知る、そのように理法は「現に証せられるもの」等の性質をもっている(p.125)

 つまり、認知が起きた時に、修行者の内面に対象への貪欲があれば「ある」と気づき、なければ「ない」と自覚する。そのようにゴータマ・ブッダの理法は明白で時を選ばず実践できるものであり、それが涅槃へ導くのだということである。これは実に端的な教えでわかりやすい。(p.125)

 即ち、歩いている時には「歩いている」、立っている時には「立っている」などと、いかなる時でも自分の行為に意識を行き渡らせて、そこに貪欲があれば「ある」と気づき、なければ「ない」と気づいている、そのような意識のあり方を日常化することで、慣れ親しんだ盲目的で習慣的な行為(=煩悩の流れ)を「堰き止める」ことが、気づきの実践になるわけである。(p.126)

非常に分かりやすい話でした。

今回はこのへんで。




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by toshiokake2 | 2018-03-21 05:54 | 仏教思想のゼロポイント
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