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線 雑想メモ


雑想メモ


アタマで考えるときは、
思考は「線」の上にある。

AだからB、BだからC、CだからDだから、、、という風に。

でもやっぱり、
AだからPで、PだからQかな、、? というときも、

やはりそちらはそちらで、そちらの「線」の上にある。


ジッサイの経験、
たとえば、

朝起きる、煙草を吸う、雨を見る、などは、

その瞬間には、それ単独で経験する。

「線」の上にはない。


あとから記憶になると、

朝起きてから、煙草を吸ってから、雨が降っていたのを見た、と、

「線」の上にあったように見えるが、

経験している瞬間は、「線」の上には見ていない。


まえに、

ふいに、

脳内にたくさんの映像がよぎり、
至福に包まれたことがある、と書いた。

あれは何だったんだろう?

と、よくかんがえるけれど、

15年たったいまでも、答えにはたどりつかない。


似た経験をした人も、
いくらか居るようだ。

だけど、だれも、
それを明確に語り、伝えられる人はいない。


これはそもそも、
それが言語思考の限界、

アタマで考える「線」の思考、

その限界を、
超えてしまっているからではないだろうか。



量子論の多世界解釈、

というデイヴィッド・ドイッチュの解釈があって、

彼の解釈によれば、
世界はいまこの瞬間にも複数に枝分かれして行っている。

この、
SFのような解釈を否定できた人はいまだ無く、

また、
量子の世界で起こっていることの意味を説明できた人もいない。



曼荼羅、
が、ふとあたまに浮かんだ。

世界は1つの「線」の上には無く、
放射状に広がり枝分かれして行く、「複数の線」の上に在るのかもしれない。
私が見ているのは、その「複数の線」たちのうちの1つかもしれない。

曼荼羅、
は、その表現だったんだろうか。


そういえばGOMAさんも、やたら曼荼羅を描いていたなあ・・


・・・


いささか、
論理的な整合性に欠ける文章ですいません。
(そもそも、論理的整合性を求めるのが間違っているのかもしれません)

また、
拙い部分もいくらか、
言語を思考に用いるものに限定していたり、
曼荼羅の一般的解釈を無視していたりすること、
ご容赦いただけるとさいわいです。


・・・


今日はマッサージの練習に、
自分のふくらはぎを揉んだりしていて、

そうすると血流がよくなって、
急にアタマが回りだして、

こんなことを考えたり、
そういうことが、ちかごろは、時々あります。




by toshiokake2 | 2018-03-05 23:14 | Notes
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